絶海の孤島「青ヶ島」への交通インフラはどうやって完成したのか? 特殊地形との戦いで見えた公共事業の“原点”とは

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日本に数多くある離島のなかで、上陸が最も困難なのは伊豆諸島の最南端に位置する青ヶ島だ。飛行機が発着する空港もなく、外部との連絡手段は船と八丈島発着のヘリコプターのみである。

島の主食はサツマイモ

高津勉『黒潮のはてに子らありて―青が島教師十年の記録』(画像:鏡浦書房)
高津勉『黒潮のはてに子らありて―青が島教師十年の記録』(画像:鏡浦書房)

 そのような島だったため、定期的な船の訪問はほとんどなかった。記録によると、青ヶ島への最初の定期航路は1894(明治27)年に開設された。小笠原諸島に向かう船の寄港地だったが、年に2便ほどしかなかった。それ以外は月に一度ほど船が来ていた。

 通信手段もなく、島民が大正から昭和に変わったことを知ったのは、改元から約1年後にたまたま立ち寄った漁船からだったといわれている。とはいえ、土が豊かで食料が八丈島よりも豊富だったため、島には多くの人が住んでいた。

 この状況は戦後も変わらなかった。高津勉は1950(昭和25)年に小中学校の教師として青ヶ島を訪れ、多くの記録を残している。『文芸春秋』1955年6月号に寄稿した「青ヶ島の桃太郎たち」のなかで、赴任後の様子を記している。その一文を引用しよう。

「船は月に一度の割で、八丈島から不定期に連絡があるだけだ。島で厄介な病気にでも罹(かか)ろうものなら、医者がいないから、人は精神力で病気と闘わなければならない」.

 高津の記録によれば、島の主食はサツマイモ、飲料水は雨水、識字率は20%程度だったという。高津は9年間島に滞在し、当時の島の状況を記録しているが、島の生活は近代化とはまったく無縁だった。

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