絶海の孤島「青ヶ島」への交通インフラはどうやって完成したのか? 特殊地形との戦いで見えた公共事業の“原点”とは
ヘリポート建設は1965年

そんな島で近代化がようやく始まったのは、公共事業が本格化した高度成長期以降だった。戦後の青ヶ島の近代化は、非常にゆっくりと進んだ。島に無線通信手段が整備されたのは、1956(昭和31)年のことだった。それまで青ヶ島は、通信手段がないために国政選挙が行われなかった唯一の島だった。
1965年には、救急患者を島外に搬送するためのヘリポートが建設され、1966年には発電所が設置され、電灯が使用されるようになった。
残る課題は、物資を輸送するための航路の整備だった。この整備事業により、三宝港では大規模なコンクリート工事が行われた。
こうして三宝港は初めて船舶が直接接岸できるようになった。完成により、1972年に村営連絡船「あおがしま丸(後のあおがしま丸とは別)」が就航している。初代あおがしま丸は、定員48t、定員12人という決して大きな船ではなかった。それでも定期航路ができたことで、青ヶ島には多くの物資が集まるようになった。
青ヶ島が歴史上初めて観光目的で訪れる島となったのは、この定期船の開通の頃である。航路はその後、旅客船「還住丸」と貨物船「黒潮丸」による運航が長く続いた。1993年にヘリコプターによる定期航路が就航している。
航路が大きく変わったのは2014年で、あおがしま丸(2代目)の就航によるものだった。この船は貨物と旅客を一緒に扱えるように設計され、輸送の合理化と就航率の向上を目指していた。還住丸は119tと初代おがさわら丸より大きかったが、それでも荒波には勝てず、就航率は50%程度にとどまった。これに対し、2代目あおがしま丸は460tに大型化され、就航率も60~70%に高まった。
同航路は2022年2月から新造船「くろしお丸」に変わったが、就航率は同水準にとどまっている。かつての便数の少なさ、就航率の低さに比べると、かなり安定した航路となっている。