「推し活」の原点? 120年前の“会いに行けるアイドル”に熱狂――それを支えた交通手段の正体

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いつの時代も、若い男性は若く美しい女性を目にしたいと思うもの。江戸時代のアイドルは芸者だったが、明治時代になるとさまざまな新らしいアイドルが生まれる。それら近代アイドルの誕生の背景には、交通機関の発展があった。

明治時代末に現れた、会いに行けるアイドル

カフェーと女給。『大東京寫眞帖』。国会図書館蔵(画像:近代食文化研究会)
カフェーと女給。『大東京寫眞帖』。国会図書館蔵(画像:近代食文化研究会)

 1907(明治40)年、上野公園において東京勧業博覧会が開かれた。東京の人口が250万人の時代に、4か月間で680万人が来場するという、とてつもない動員記録を達成した博覧会であった。

 博覧会への動員を支えていたのが、1903年から東京中を網羅し始めた路面電車である。

 路面電車はどこまで乗っても3銭均一。人力車や馬車鉄道(品川~浅草間14銭)しかなかった市内交通に、価格破壊をもたらしたのである。しかもその速度も、人力車や馬車を凌駕していた。

 安くて速い路面電車に乗って、東京の人々は繰り返し東京勧業博覧会へと出向いた。そしてその会場で人気となっていたのが、西洋料理を給仕する美人女給だったのである。

 女給とはいわば、路面電車で会いに行けるアイドルであった。

 特に人気となっていたのが、博覧会で一番の美少女女給がいると評判の、西洋料理店精養軒の出張店。

 美少女女給ビジネスに手応えを得た精養軒は、1908年にカフェー・シンバシをオープン。1911年には銀座のど真ん中、現在の和光や三越のある場所に大規模カフェー、カフェー・ライオンをオープンする。

 このカフェー・ライオンがけん引する形で、日本全国にカフェーと「会いに行けるアイドル」女給のブームがまきおこったのである。

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