「東京湾」という名前が使われ始めたのは、なんと「昭和40年代」からだった!

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東京湾は、面積約922平方キロ、湾奥平均水深15mの内海で、首都圏4000万人の物流と都市開発を支える戦略的空間だ。その名称と港湾整備の歴史は、江戸期から国際貿易まで、経済の基盤と直結している。

東京湾名の成立史

東京湾と富士山(画像:写真AC)
東京湾と富士山(画像:写真AC)

 現在の東京湾をひとつの海として認識する意識が広まったのは、江戸後期以降である。経済学者の佐藤信淵(のぶひろ)は、印旛沼開発と東京湾沿岸の整備を組み合わせた壮大な構想を提案し、『内洋経緯記』にまとめた。この書物では、現在の東京湾を

「内洋(うちなだ)」

と呼んでいる。

 一方、外国人は早い段階から東京湾をひとつの湾として意識していた。1690年のヴェネチア、1704年のアムステルダムで作成された日本図には、それぞれの言語で

「江戸湾」

と表記されている。これにより、現在の東京湾を統一的な海域として認識する言葉が幕末に広まったと考えられる。

 1853(嘉永6)年の黒船来航では、ペリーが浦賀に停泊し、日記や米国政府への報告書で「エドベイ」と記録している。この時点で、外国勢は江戸湾をひとつの港湾・海域として理解していたことがうかがえる。

 開国後の交渉や外交の過程で、日本でも「江戸湾」という呼称と統一的な湾の認識が定着した。明治期に江戸が東京に改称されると、湾の名称も東京湾に落ち着いた。

 前述のとおり、昭和40年代には海図上の表記も「東京湾」に統一された。ペリーは江戸湾の測量時に「アメリカ錨地」や「サスケハナ湾」といった独自名称を地図に記したが、これらは定着しなかった。

 東京湾の名称の確立は、港湾・海上交通の管理や経済的利用を進めるうえでも重要な意味を持つ。

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