「東京湾」という名前が使われ始めたのは、なんと「昭和40年代」からだった!
東京湾は、面積約922平方キロ、湾奥平均水深15mの内海で、首都圏4000万人の物流と都市開発を支える戦略的空間だ。その名称と港湾整備の歴史は、江戸期から国際貿易まで、経済の基盤と直結している。
江戸前海の港湾史

『日本書紀』の景行天皇53年には、天皇が上総国から海路で淡水門(あわのみなと)に渡ったことが記されている。この淡水門は、後の安房国(現・千葉県南部)や館山湾を指すとされる。
江戸時代初期の随筆家、三浦茂正が著した『慶長見聞集』も貴重な記録である。三浦茂正は相模三浦氏の一族で、長らく後北条氏に仕えていた。小田原征伐で後北条氏が滅亡すると農民となり、後に天台宗の僧・南光坊天海に帰依した。その後、自らの見聞をまとめたのが『慶長見聞集』である。同書には
「相模、安房、上総、下総、武蔵、5国の中に、大なる入り海あり」
と記されており、江戸時代の漁場争いの記録には
・内海
・裏海
との表現も見られる。房総半島と三浦半島に囲まれたこの海域は、当時の人々にとって特定の湾として認識されていなかった。単に「江戸前の海」と呼ぶ程度であった。
これは、当時の東京湾沿岸に巨大な港湾開発や海上交通プロジェクトが存在しなかったことを示している。湾をひとつの名称で呼ぶ必要も、統一的な管理も求められていなかったのである。江戸前の海は、地域の漁業や港湾経済の単位として捉えられていたにすぎない。