スカイツリーは「埼玉」に建つはずだった? 東武鉄道も絡んだ争奪戦、124万人署名むなしく幻に終わったワケ
東武主導の事業本格化

しかし、放送局各社の間ではさいたまタワーの実現可能性は低いとみなされていた。
最大の課題は、電波受信障害の影響範囲が広がることだった。さらに、さいたまタワーは電波送信を主とした簡素な構造を想定し、観光収入はほとんど期待されていなかった。建設費は、店子である放送局からの賃料収入で回収する計画だったのである。
放送局収入が減少した場合、公費投入が避けられないリスクもあった。そのため、観光地としての機能を備えることが不可欠だった。ところが、さいたま新都心に展望台付きのタワーを造った場合の課題は多かった。周囲は一般的な住宅街であり、富士山や秩父山地は遠方にかすかに見える程度。高層ビル群も遠く、夜景の魅力に欠けていたのだ。
こうした事情から、2004年内に土地買収の合意が見込まれていた豊島区東池袋のサンシャイン60隣接の造幣局地区周辺が、より有力な候補地とされた。
その一方で、東武鉄道(墨田区押上)の社内で進められていた「すみだタワー・プロジェクト」を軸に、墨田区が2004年11月25日に正式に名乗りを上げた。検討を重ねた結果、2005年3月28日に墨田区押上地区が第1候補地に選定された。2006年には、東武鉄道が全額出資する新会社「新東京タワー」が設立され、事業は本格的に動き出す。
このプロジェクトに日本テレビ社員として関わった根岸豊明氏は、著書『誰も知らない東京スカイツリー 選定・交渉・開業・放送開始…10年間の全記録』(ポプラ社)で、以下のような緊迫した交渉の様子を記録している。
・賃貸料や電波障害対策費用について、大家である東武鉄道側にも負担を求めること
・電波塔は社会インフラであり、一般的なテナントとオーナーの関係とは異なるという認識
双方の意見が対立し、一時はプロジェクトの白紙撤回も取り沙汰されたという。