スポーツカーを滅ぼすのは「EV」なのか? スカイライン、ロードスター、GR86…失われる五感と一体感! 無音の時代に“クルマ魂”は蘇るか

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進化する自動車技術の中で、かつての「操る喜び」が失われつつある。電動化や運転支援が進む一方、スポーツカーの本質である五感を通じた走行体験はどこへ向かうのか。EVの静寂と加速力がもたらす新たな課題と、心を揺さぶる走りの再発見が今、求められている。

DTMとEVに共通する欠落

自動車(画像:写真AC)
自動車(画像:写真AC)

 すべてが整いすぎている。手応えがない。EVの操作感は、ドライバーが介在する余地を失わせる。その感覚は、音楽の変化にも重なる。

 デスクトップ・ミュージック(DTM)の普及により、誰でも完成された音楽を簡単に作れるようになった。音程は外れず、リズムも正確。キャッチーなフレーズも並ぶ。演奏技術がなくても、高品質な音楽は制作可能だ。

 しかし、そこに身体を通した表現があるとは限らない。指の震えや一音の抑揚、空気を変えるような「間」。そうした揺らぎは、プリセット化された演奏からは生まれない。ジミー・ペイジやジェフ・ベックが生み出したノイズや余白には、演者の感情が滲んでいた。魂が宿る演奏とは、均整を欠いた瞬間にこそ現れる。

 ギターのチョーキングの角度。強弱の微妙な揺れ。ピックが弦を擦る摩擦音。それらはすべて、演奏者の身体から生まれる。演奏とは、音に触れる行為であり、感情の投影でもある。

 この違和感は、クルマの進化にも通じる。EVの加速は速く、制御も滑らかで正確だ。だが、その精度の高さは、走りに昂揚感を与えない。ペダルの微妙な踏み加減。ギアを抜いたときのわずかな振動。エンジン音に込めた意図。そうした要素が、かつての「走り」には存在した。

 ギターもクルマも、最初は思い通りに扱えない。だが、何度も繰り返すうちに身体が覚え、道具が応える。その瞬間に訪れる「わかり合えた」という感覚。そこに最大の快感があった。スポーツカーには、まさにその習得の喜びがあった。

・扱いづらいマニュアル車
・ピーキーなパワー特性
・路面状況に左右される足まわり
・ヒール&トゥで回転を合わせる瞬間
・リアを滑らせるコーナリングの緊張と開放
・雨の日の路面と対話するようなブレーキング

それらは、単なる移動ではなく、まるで演奏のようだった。

 操作の自由度があるからこそ、人は創意工夫し、身体で覚え、自分だけの走りを手に入れる。それは所有ではなく、習得だった。自己表現でもあった。走りも音楽も、ただ正確なだけでは心を打たない。表現の喪失は、快楽の喪失と紙一重である。

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