EVで「暴走族」はおかしい? エコなのか迷惑なのかどっちやねん! 新時代の反逆行為とその矛盾を考える

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EVの普及が進むなか、静かな加速を見せるEV暴走族が現れる可能性が浮上している。エコで持続可能な移動手段であるEVが、反社会的行動の象徴となる矛盾に直面するなか、移動の自由と社会的責任のバランスをどう取るべきかが問われる。技術進化と倫理の交差点に立つEV時代を生きるための「走り方」とは。

新時代の反抗文化

EV(画像:Pexels)
EV(画像:Pexels)

 静かに加速する電動バイクやEVが、かつての暴走族スタイルで走行する姿は、見る者に違和感を与える。排気音もなく、スムーズに走るその姿はエコカーの象徴であるはずだが、集団での迷惑行為に変われば、「エコ」の看板はもはや意味をなさない。

 このパラドックスは、単なる珍現象にとどまらない。現代では、移動手段とライフスタイルが密接に結びついており、EVという「善なる存在」が暴走族という「悪しき行為」と結びつくとき、私たちは移動の価値をどう捉えるべきなのか。

 まず、従来の暴走族文化を振り返ると、それは単なる迷惑行為以上の社会的な文脈を持っていたことが分かる。

 1970年代から1990年代にかけて、日本全国で暴走族が台頭した背景には、社会に対する若者の反発心があった。画一的な教育や労働環境への不満、家庭内での疎外感、さらには「大人社会」に対する反抗心が、改造バイクや車を駆る行為に象徴的に表現された。

 その手段として選ばれたのが、

「内燃機関」

を搭載したバイクやクルマだった。エンジンを吹かすことで発生する騒音は、単なる物理的な音ではなく、「俺たちはここにいる」という存在証明そのものだった。

 しかし、電動モビリティはどうだろうか。静粛性が最大の特徴であるEVでは、従来のような爆音を伴う存在誇示は不可能だ。それでもなお、EVを駆る新世代の「静かな暴走族」は、存在感を示そうとしている。

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