「性的すぎる」「芸術だ」 街の裸婦像、もはや“時代遅れ”? ジェンダー意識の高まり? 市民は困惑、都市空間と芸術の関係を再考する
都市空間に点在する裸婦像が「時代遅れ」とされる背景には、価値観の変化と公共空間の利用目的の変化がある。静岡市や宝塚市では、撤去を巡る議論が続く中、現代社会における芸術の役割と都市景観の在り方が問われている。裸婦像の存廃を巡る議論は、単なる美術作品の是非を超え、都市の文化としての意義を再評価する機会となっている。
設置から30年、価値観の対立
裸婦像が「時代遅れ」とされる背景には、価値観の変化がある。
・ジェンダー意識の高まり
・多様性の尊重
・公共空間の利用目的の変化
が、その主な要因だ。特にジェンダーの観点からは、
「女性の身体を公共の場にさらすことが適切なのか」
という問いが浮上している。かつては美術作品として無批判に受け入れられていたものが、今では異なる視点から再評価される時代になった。
静岡市の難波喬司市長は、
「公共の開かれた目につきやすい空間に置くのではなく、作品の鑑賞環境に相応しい場所に置くのがよい」(テレビ静岡、2024年12月19日付け記事)
と述べている。これは、裸婦像の芸術的価値を否定するものではないが、都市の景観が社会の変化を反映すべきだという考え方の表れだ。
一方、設置当時の市長である天野進吾氏(在任期間:1987~1994年)は、
「『性的』と言うこと自体が未熟な感覚。『ヌードだから』と、いやらしさを感じるバカはいない」(同)
とし、むしろ裸婦像を否定することこそが問題だと指摘する。こうした過去と現在の価値観の対立こそが、裸婦像をめぐる議論の本質を浮き彫りにしている。