中国165年ぶり「ウラジオストク奪還」で、“鳥取県が発展する”は本当か
貿易の歴史

良港に恵まれなかった鳥取県で日本海を通じた貿易が盛んになるのは、明治時代に入ってからだ。
1892(明治25)年、当時の境港町では「朝鮮貿易開港期成同盟会」が結成され、鳥取県議会でも内務大臣に対して同港を貿易港として開港することを求めている。こうして、境港は1896年に開港場、1899年に外国貿易港として指定された。なお同時期、既に朝鮮の鬱陵島(うつりょうとう)との密貿易は盛んに行われており、貿易港と整備すれば、その弊害もなくなることも主張されている。
こうして開港した境港では1899年に、鳥取県の助成による「境貿易会社」が設立され、韓国の仁川・釜山・元山に寄港する貿易を開始している。当時の輸出品は木材、石材、木綿、陶器で、輸入品は穀類や肥料だった。
また、鬱陵島との経済的結びつきは強化されていた。韓国併合が実施された1910年には境港から隠岐を経由して、鬱陵島に至る航路が開設されている。この頃、鬱陵島には現地民を圧倒するほどの数の日本人移住者(主に隠岐からの移住者であった)が居住し、境港からは多数の商品が運ばれ、現地で生産されるスルメなどと交換されていた。
その後も境港の大陸貿易港としての地位は、着々と上がっていった。大正時代に入ると、航路は次のように拡充されている。
・1919年:境港~元山
・1920年:境港~温泉津~浜田~鬱陵島~浦項
・1924年:雄基~清津~舞鶴~境港~ウラジオストク
・1926年:境港~大連
このように、戦前までに境港は大陸の主要貿易港との航路を確保していた。さらに1931年の満州事変発生、翌年の満州国成立後には「日本海時代の到来」が叫ばれ、境港は朝鮮半島北部や大陸を結ぶ重要港湾として、今後の発展を期待されるようになった。
しかし、太平洋戦争の敗戦によりその期待はすべて水泡と化した。日本海は閉ざされた海となり、山陰は「裏日本」の一部として、太平洋ベルトの発展に後塵(こうじん)を拝する地となった。
この後、日本海は冷戦期に一貫して閉ざされた海となっていたが、「裏日本」とやゆされた沿岸地域では、経済圏の復活を試みる動きが一貫して続いていた。1965(昭和40)年には、冷戦中の最中だったが、沿岸の自治体で結成された「日本海沿岸地帯振興連盟」が訪ソし、ハバロフスクでの物産展開催にこぎつけている。
この後、鳥取県ではソ連への20世紀梨などの農産物の輸出が継続的に行われている。しかし、戦前並みの大陸との航路復活は、求められるものだった。そのため、鳥取県議会では1965年の日韓基本条約を前に批准促進の決議、1966年には日中関係正常化を求める決議、さらに1967年には朝鮮民主主義人民共和国との国交正常化を求める意見書を相次いで可決している。
しかし、両岸の貿易を振興する動きは冷戦期にはまったく振るわないままだった。