横須賀にたたずむ「戦艦三笠」 保存運動のきっかけは何と旧敵国・米国司令官によるものだった
修復保存運動は英字新聞から

こうしたさらなる無残な状態は、日々の生活に追われていた多くの日本人にとっては関心の外ではあった。
しかし、1950年代半ば頃に日本国内で出版されていた英字新聞であるジャパンタイムズへのひとりのイギリス人による三笠の荒廃を憂う旨の投稿がきっかけとなり修復保存運動が持ち上がることとなる。
この運動には既に日本を離れ引退していたニミッツも賛同、運動は内外で次第に盛り上がって行くこととなる。三笠の修復保存に関する予算が大蔵省(現・財務省)の承認を受けたのが1959(昭和34)年。直ちに修復工事が開始され、完成したのは1961年のことだった。
現在、横須賀で堂々とした姿を披露している三笠ではあるが、その上部構造物でオリジナルな箇所は少なく主砲もダミーである。しかし艦体そのものは建造以来のオリジナルであり、象徴的ないかりやその鎖もオリジナルである。
極めて異例な2度の保存

1900(明治33)年前後に就役した各国の戦艦は、その後にイギリスで完成した画期的な高性能大型戦艦であるドレッドノートとの比較で「前ド級戦艦」と呼ばれているが、既述した通り、ワシントン海軍軍縮条約によって廃艦からの種別変更を経た後に解体された。
もしくは、標的艦としての処分などの運命をたどった艦がほとんどであり、三笠の様に2度にわたって保存艦となったのは極めて異例である。
何よりもその数奇な運命の背景にあったのは民間からの多くの声に加えて、かつては戦場で対峙(たいじ)していた敵側司令官の協力があったという事実にも、三笠という艦とそれを指揮した東郷平八郎の国際的な知名度と評価の高さが伺い知れる。
個人的には、主砲塔や副砲を収めたケースメート部などに加えて艦橋などの主要な上部構造物だけでも建造当時のオリジナルにより近いスタイルに復元してほしいところだが、今となってはそれも困難だろう。
願わくば、この先も長く横須賀の海岸にその姿をとどめてほしい近代化遺産である。