横須賀にたたずむ「戦艦三笠」 保存運動のきっかけは何と旧敵国・米国司令官によるものだった

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アメリカ海軍横須賀基地に程近い三笠公園(神奈川県横須賀市)に戦艦三笠が陸上固定の記念艦としてたたずむこととなったのは、1926年11月からのことである。

民間からの保存運動

神奈川県横須賀市にある記念艦三笠(画像:写真AC)
神奈川県横須賀市にある記念艦三笠(画像:写真AC)

 これにより三笠の解体は早まることとなる。

 しかし、前述の通りこの時点での三笠は国内でもその名を知られた日本海軍の象徴的存在だったことから、廃艦からの解体という報道がなされると民間からの保存運動が立ち上がることとなる。

 これは当時としては異例なことであり、運動の高まりとともに政府も保存に向けて具体的に動き出すこととなった。軍縮条約の結果を受けての廃艦ではあったものの必ずしも解体しなければいけなかったわけではなく、三笠の同型艦だった敷島と朝日はともに武装や装甲を大幅に減じた上で練習特務艦に生まれ変わることとなっていた。

 記念艦として保存が決まった三笠は、将来的に戦艦としての復帰を不可能とするために、艦を現在の位置に移動させた上で艦首を皇居の方角に向け岸壁に定置された。

 艦の周囲には大量の砂を投入することで陸上に固定された状態となり、喫水線下の艦内にもコンクリートが投入された。上甲板の装備類は多くが残されたが、主砲や副砲などの武装は全て撤去され代わりにダミーの複製品が載せられた。記念館としての工事が完成したのは冒頭に記した通り1926年11月のことである。

運命を大きく左右した第2次大戦

三笠公園(画像:写真AC)
三笠公園(画像:写真AC)

 以来、三笠は国民の多くに親しまれるとともに横須賀の観光名所ともなった。ところが第2次世界大戦がその運命を大きく左右することとなる。

 1945(昭和20)年の敗戦とともに、三笠は記念艦としての地位を失い、事実上無管理状態となった。それに加えて国民感情の荒廃から、装備品の鋼材や甲板の木材の深刻な窃盗被害にさらされることとなる。

 しかしここで意外なとある人物が三笠に救いの手を差し伸べる。その人物とはアメリカ海軍の最高位士官だった海軍作戦部長のチェスター・ニミッツ元帥である。

 かねて東郷平八郎に心酔していたニミッツは東郷が指揮した三笠の荒廃を心苦しく思い、被害を最小限に食い止めようとしたがそれもかなわず。

 1950年代初めには艦上にダンスホールや水族館が設けられるなどのアメリカ軍人向けの娯楽施設になってしまった。