横須賀にたたずむ「戦艦三笠」 保存運動のきっかけは何と旧敵国・米国司令官によるものだった

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アメリカ海軍横須賀基地に程近い三笠公園(神奈川県横須賀市)に戦艦三笠が陸上固定の記念艦としてたたずむこととなったのは、1926年11月からのことである。

陸上固定は1926年から

神奈川県横須賀市にある記念艦三笠(画像:写真AC)
神奈川県横須賀市にある記念艦三笠(画像:写真AC)

 アメリカ海軍横須賀基地に程近い三笠公園(神奈川県横須賀市)に戦艦三笠が陸上固定の記念艦としてたたずむこととなったのは、1926(大正15)年11月からのことである。

 それから100年近く、三笠は海を望む公園の歴史的モニュメントとして、またあるときには日露戦争を描いた映画やドラマの撮影舞台として使われ現在に至っている。

 戦艦三笠は、1902(明治35)年3月にイギリスのヴィッカース社で完成した最新鋭の戦艦だった。常備排水量1万5000t、連装12in主砲塔を艦の前後に各1基搭載という基本デザインは、同時代のイギリスやアメリカの戦艦でも多く見ることができたおなじみのスタイルだった。

 しかし、意外なことに現存している20世紀初頭に完成した戦艦は世界で唯一、この三笠だけである。欧米にも著名な艦はあったのだが、それらは全て解体もしくは処分され現存してはいない。

 戦艦の建造設計においては常に先進かつ、歴史的軍艦の保存に熱心だったイギリスにも現存していないのである。そうした中、なぜ三笠は生きながらえることができたのだろうか。

日露戦争の最新鋭戦艦

東郷平八郎像(画像:写真AC)
東郷平八郎像(画像:写真AC)

 戦艦三笠という具体的な艦名は知らずとも、日露戦争(1904~1905年)における日本海海戦とそれを指揮した連合艦隊司令長官・東郷平八郎の名を耳にしたことが無い人は少ないだろう。

 三笠は当時の連合艦隊旗艦であり、世界最優秀との誉れも高かった最新鋭の戦艦だった。日露戦争こそは明治期の日本が世界の大国の一員に名を連ねるきっかけとなった一戦であり、その勝敗において極めて重要な転機となったのが日本海海戦だった。

 日露戦争の終結後、東郷平八郎と彼が司令官として乗艦した三笠はともに勝利の立役者として国民的な人気を得ることとなる。三笠は日露戦争後も1921(大正10)年まで現役にあったが、同年のワシントン海軍軍縮条約の結果を受けて退役の後に解体されることが決定した。

 さらに、解体を待っていた1923年9月に起きた関東大震災の際、予備役として保管中だった横須賀港の岸壁に衝突したことで損傷し着底してしまう。

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