お葬式最大の謎? 霊柩車に「ド派手な装飾」が乗っていた理由
夜明け前は江戸・明治の葬礼

霊柩車登場以前である明治以前の葬礼では、駕籠(かご)や輿(こし。屋形の下に2本の轅〈ながえ〉をつけた乗り物)を使って菩提寺、墓まで遺体を運んだ。この際、駕籠を担ぐ人足を頼むこともあったが、身内や町内の縁のある者が自分たちで運んだ。身分が高い場合は、ひつぎは輿に入れられた。輿は豪華な彫刻が施されており、宮型霊柩車の原型とも考えられる。
明治に入ると人力車が生まれ、ひつぎは大八車に付けた輿に入れて運ばれるようになる。庶民にとっても、駕籠ではなく豪華な輿が一般的となるが担ぐことには変わらなかったようだ。貧富の差が激しくなっていた明治時代、人足を雇い人力車で豪華な輿を運ぶことは、富裕層の、いわばステータスだったのだろう。
江戸時代から明治にかけて、遺体を菩提寺まで運ぶことを「葬列」といった。地方では昭和の中頃まであったのではないだろうか。遺族や縁のある者、町内の者が、故人と別れを告げるための儀式のひとつであった。
江戸時代まで葬列は、明け方または夕方にひっそりと行われるものだった。しかし、大政奉還に四民平等、自由民権運動、廃仏毀釈(きしゃく)と大きく様変わりした社会は、葬礼への倫理観も変える。富裕層にとって、葬礼は婚礼と同様に財力の誇示の機会となったのだ。
大八車の輿はどんどん豪華な彫刻や金銀の箔(はく)が施され、葬列には遺族や町内の衆に加え、「奴」という踊り連がいた。放鳥を行い、大量の花を生けて別の車で運んだ。年頃の娘には振り袖を着せて参加させる葬列も珍しくなかった。これではまるで、葬列ではなく大名行列か吉原の花魁(おいらん)道中だ。
実際、当時の葬祭業は、職をなくした大名行列や花魁道中などを請け負った業者や職人が商売替えをして始めたものが多かったという。ケガレの儀がハレの場となった遺体を運ぶ葬列は、当然大名行列のごとく道路を独占した。
しかし、道路交通の近代化は刻々と進む。都市部に人口は集中し、人力車がわが物顔で走り行く。都市部には市電が走り始め、人々は目的地まで電車や人力車を使うようになった。こうなると、道路には「人」よりも「車」が多くなる。
ついに、葬礼等で道路をふさぐことはまかりならんという世論が、にぎやかな葬礼は日本の文化だという層を上回るようになった。奴連はなくなり、放鳥も花車(きゃしゃ)もなくなった。
時代は大正。いよいよ日本の自動車産業の始まりだ。