町田市に「幻の地下鉄計画」があった! 43万人都市を救うはずだった“リニア計画”の野望と挫折
人口43万人の町田市に描かれた「地下鉄構想」は、制度の壁と採算性の限界に阻まれ、幻に終わった。だがそれは、地方都市が自律的な交通核を目指し、都市間競争に挑んだ数少ない試みでもあった──構想から35年、いま改めて問う、都市政策の想像力と実行力。
自律交通圏構想の挫折と転換

当時の市長・大下勝正は「道路の渋滞で悩んでいる市民のことを思えば、これくらいの出資は当然」と意気込んだ。が、それに応える運輸省側の反応は冷淡だった。「政令指定都市以外で市が地下鉄をつくるのは聞いたことがない」とは、1989年当時の担当者のコメントだ(『朝日新聞』1989年3月14日付け)。つまり国の制度設計が、町田のような“中規模都市の野心”を想定していなかったということである。
1993(平成5)年、後任の寺田和雄市長は地下鉄構想について
「町田のようなまだまだ山間地の多いところでは、実際につくったとしても、とても採算が合わないのではないかというふうなことで、今のところ、手も足も出していないわけであります」(1993(平成5)年12月の定例会。町田市の市議会議事録)
と言明し、以後、市の交通政策の主軸は小田急多摩線の延伸やモノレールへの接続など、“周辺路線との接続強化”へと方向転換されていった。
町田の地下鉄構想は、ただの夢想だったのか――否。むしろ、都市間競争の新たな位相に突入しようとする1980年代末の都市行政のなかで、“自前の軸”をもとうとした数少ない試みだった。
結果的に、町田は今も東京圏の交通網の“末端”に位置づけられたままである。小田急も横浜線も中心都市へ通じる路線であり、町田を目的地とする交通インフラではない。言い換えれば、町田には自律的な集積の回路がない。都市が膨張した結果として人が集まるのではなく、人を中心に据えて都市を組み立て直す――そのためのツールとして地下鉄は機能しうる可能性があった。