町田市に「幻の地下鉄計画」があった! 43万人都市を救うはずだった“リニア計画”の野望と挫折

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人口43万人の町田市に描かれた「地下鉄構想」は、制度の壁と採算性の限界に阻まれ、幻に終わった。だがそれは、地方都市が自律的な交通核を目指し、都市間競争に挑んだ数少ない試みでもあった──構想から35年、いま改めて問う、都市政策の想像力と実行力。

通勤圏補完を狙った連携構想

町田市の位置(画像:OpenStreetMap)
町田市の位置(画像:OpenStreetMap)

 この段階で注目すべきは、町田市が当初から都市圏交通の“補完”を担う意識であったことだ。計画では、町田駅を中心に既存のJR・小田急だけでなく、京王線や横浜線、将来的には多摩モノレールなどとも接続を視野に入れていた。つまり町田市は、東京通勤圏の「死角」と化した郊外を接続する、自律的な交通核としての再編を構想していたのである。

 だが、計画は急速に頓挫する。1989年6月には国の審議会認可が早くても1992(平成4)年以降になると報じられ(『朝日新聞』1989年6月1日付け)、年内の判断は困難と判断。市は調査に2000万円の予算を付けたものの、次第に構想の熱は冷めていった。

 実際、1990年の「町田市総合交通システム調査研究報告書」では、地下鉄の導入可能性そのものには具体的な言及がなく、モノレールや新交通システムの特徴を並列的に比較した資料にとどまっている。構想は構想として、現実の都市交通に落とし込む具体的工程がなかった──これが実現に至らなかった最大の要因である。

 当時の町田市はまだ市域の多くが山林や傾斜地で占められており、地形的制約は大きかった。ルート選定の困難、用地取得の複雑さ、そして何より、採算性の見通しが極めて不透明だった。政治的な指導力がありながら、実行部隊の制度設計が追いついていなかったのである。

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