「赤ちゃんが乗っています」を見ると、なぜ身構えてしまうのか――「だから何?」「どうすればいいの?」 SNSでも賛否、公道における心理的な摩擦の正体とは
利害関係者の分析

この表示には、複数の立場が絡み、それぞれ異なる思いを抱えている。家族にとっては、安く手軽に安全を願える手段だ。しかし、5割以上の人が必要ないと感じている以上、知らず知らずのうちに周囲の反感を買うリスクを背負うことになる。一般のドライバーにとっては、前方の車の動きを予測するヒントになる反面、一方的に気を使う心理的な負担が積み重なっていく。
作る側の企業は、消費者の不安を和らげる名目で利益を得る。原価は低く、長く売れ続ける商品だが、社会に生まれる摩擦や心理的負担は企業が背負わない。儲けを手にする一方で、社会的ひずみは現場のドライバーに押し付けられている構図だ。
さらに、国や役所はこの問題を民間任せにしており、公的なルールとして情報をまとめる責任を放棄している。本来、安全は国が守るべきものだが、個人のモラルや安価なグッズの売買で済ませているのが現状だ。公共の安全の不足を、個人の負担で補う構造が浮き彫りになっている。
公道は、名前のない人々がすれ違う社会として成り立っている。走る車にどんな家族が乗っているかは、安全な運転とは関係のない情報だ。利用者がお互いの素性を隠し、交通ルールという共通の約束を守ることで、移動はスムーズに行われている。
ところが「赤ちゃんが乗っています」という表示は、この名前のない者同士の約束を破り、特定の自分をさらけ出す行為になる。交通という無機質な仕組みに、個人的な事情を急に持ち込むことは、他人の情報処理を乱す「雑音」になる。この情報を微笑ましいと感じるか、うるさいと感じるかは受け手次第だ。効率を重視すれば、調和を乱す余計な口出しとも映る。
ここには、公と私の境目がぼんやりしてきた現代社会の問題が映し出されている。かつてははっきりわかれていた公の場と私的空間の線が、SNSの広がりなどで溶け始めている。ステッカーは、そのあやふやさを象徴している。人々の不安やいらだちは、公と私の線がどこにあるのか、その確かな境界が見えないことから生まれているのだろう。