「海抜0m」「蛇行道路」に挑んだ東西線! 都心~千葉を結ぶ首都圏通勤輸送の大動脈誕生、その軌跡とは
東京メトロ東西線は、1964年の開業以来、千葉県西船橋まで都心とベッドタウンを直結し、延べ3年余りに及ぶ難工事や隅田川トンネル突破を経て、首都圏通勤輸送の大動脈として地域開発と沿線価値を押し上げてきた。
都心直通路線の構想

東西線建設が決まる以前、国鉄でも都心の東西を結ぶ路線計画が存在した。1956(昭和31)年、都市交通審議会の答申に基づき、中央線・総武線の線路増設が検討された。計画には市ヶ谷~東京間の短絡線新設や、東京駅への総武線乗り入れも含まれていた。
検討の末、国鉄は計画中の東西線との直通運転が望ましいと判断した。1960年、着工前に営団総裁と合意し、相互直通運転を実施することになった。東西線は首都圏の新たな大動脈として大きな期待がかけられていた。
1964年の部分開通後、工事は東へ向けて進んだ。東京五輪期間を挟んだため調整も必要だったが、中野~神楽坂間は地盤の固い山の手台地を掘る区間であり、工事は順調に進んだ。その先には多くの難所があったが、技術者たちは知恵を絞り、工事を進めた。
最初の難所は飯田橋付近である。外濠通り、目白通り、大久保通りが交差する交通の要衝であり、中央線・総武線とも交差する上、国鉄の飯田橋駅と連絡する必要があった。工事では、外堀下を掘削して進むことで問題を解決した。
次に立ちはだかったのは九段下から大手町までの区間である。地下鉄工事の基本は既存道路の下をくぐることであるが、当時は竹橋駅を設置することも決まっており、内堀通りは堀に沿って蛇行していた。結果として竹橋~大手町は堀の内側を通すことになった。しかし文化財でもある堀内を通すため、宮内庁をはじめ関係省庁との交渉が不可欠であった。