2014年消滅 東銀座「三原橋地下街」とは何だったのか? 晴海通りの下にひっそり存在、知られざる黒歴史をひもとく
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東京都の埋め立て計画
筆者(昼間たかし、ルポライター)は以前、当媒体に「銀座の上を走る「東京高速道路」の謎! なぜ建設時に境界線が引かれなかったのか」(2023年10月29日配信)という記事を書いた。そのなかで、安井誠一郎東京都知事(1947年5月~1959年4月、3期)の在任中に繰り広げられた一連の汚職事件「東京の七不思議」について触れた。
このなかで取り上げられた疑惑のひとつに「三原橋地下街」に関するものがある。三原橋地下街は、2014(平成26)年に閉鎖解体されるまで、昭和の香りを残す場所と知られる地下街だった。東京都中央区の東銀座駅と銀座駅の間、晴海通りの下を通っていたのも印象的だった。この地下街はどういう経緯で建設され、そこにはどのような疑惑があったのか。今回は、そのことを記してみよう。
焼け野原となった東京の戦後復興で大きな問題となったのが、焼け跡のがれき処理だった。政府は1945(昭和20)年末までに復興計画を策定したものの、予算と人手不足のために何もできなかった。
特に障害となったのは、空襲で残ったがれきと土だった。空襲で残ったがれきや土は高く積み上げられ、場所によっては交通や衛生上の問題になっていた。その解決策として、東京都は当時都心を流れていた河川の埋め立てにがれきを利用することを思いついた。埋め立てた土地を売却すれば、処理費用も賄えるという一石二鳥の計画だった。
この計画のなかで、三原橋地下街を流れていた三十間通りを埋め立てようということになった。1948年、東京都議会は追加予算案を可決し、三十間通りを1億円で埋め立て、その後1億円で売却し、財源とする追加予算案を可決している。
埋め立ては1948年4月に始まり、約1年後にほぼ完了、入札が始まった。1949年3月19日付けの『読売新聞』朝刊によると、三原橋付近の坪単価は10万円が相場で、最低価格は5万円といううわさだった。しかし、販売は予定通りには進まなかった。多くの土地が売れ残ったのだ。1951年5月22日付けの『読売新聞』夕刊によると、売りに出されたのは3分の1ほどで、残りは都有地として残された。