「18年守った聖地が消えた」 ロードスター愛好家の絶望――あまりに悲しい幕引き、SNSが加速させた開放性の逆説とは
自治体の負担と判断

それぞれの利害関係をひも解いていくと、水面下に隠れていた矛盾が浮かび上がってくる。
まず、公園を管理する自治体の立場だ。地域交流の場を育むことは大切だが、それは彼らの本分ではない。周辺住民から寄せられる苦情への対応は、一刻も早く解消すべき重荷でしかないのが実情だろう。多くの車が居並ぶ光景は、たとえルールが守られていたとしても、一般の利用者には威圧感を与えかねない。
「暴走族の集まりではないか」
という疑念を招く恐れがある以上、組織として安全策をとり、活動を停止させる判断に傾くのは、ある種、現実的な帰結といえる。
長きにわたり、この場を守り抜いてきた主催者の苦労は計り知れない。無償で価値を提供し続けてきたが、一部の心ない振る舞いや、肥大化した人間関係の摩擦にさらされ、精神的な糸が切れてしまったのではないか。場所の調整から窓口担当者との折衝、さらには会場の清掃まで。表には見えない地道な積み重ねが運営を支えていた。だが、その献身への想像力を欠いた一部の参加者の存在が、継続の道を閉ざしてしまった。
一方で、車を世に送り出すメーカー側はどうだろうか。愛好家たちの熱量が生むブランドへの信頼という恩恵に浴しながら、その交流の場を整え、秩序を守る実務には直接手を貸してこなかった。あくまで参加者の自主性に委ねるという姿勢を貫いてきた面がある。
ブランドの行く末を考えれば、統制を失った集団は、いつ牙を剥くかわからない不確かな危うさを孕む。大多数が礼節を重んじていても、ひとりの違法行為や事故が起きれば、その車種全体のイメージは一瞬で汚される。それは社名を背負った公用車と同じように、個の振る舞いが全体の評価に直結するということだ。
こうした立場の違いから生じる溝が埋まらぬまま、規模だけが膨らんでしまった。個人の善意という細い糸で支える仕組みが限界を迎えたことが、各地で相次ぐ撤退劇の背景にある。