JR西、赤字路線公表の衝撃 いま再び問う「国鉄分割民営化」は本当に正しかったのか?

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JR西日本は11日、路線の維持が困難としている関西、北陸、中国地方などの赤字収支を初めて公表した。“第二の国鉄改革”の声も上がる昨今、今後はどうなるのか。

分割民営化を決定した中曽根内閣

中曽根康弘の著書『自省録―歴史法廷の被告として―』(画像:新潮社)
中曽根康弘の著書『自省録―歴史法廷の被告として―』(画像:新潮社)

 1987(昭和62)年4月1日にJR6社が誕生してから間もなく35年を迎えるが、ここに来て赤字路線の廃止論議が活発になっているのはなぜだろうか。その背景にはJR6社が誕生した原因である

「国鉄分割民営化」

がある。

 日本国有鉄道(国鉄)は1949年、鉄道省から分離して発足した。

 国鉄は「国有」と称しているものの、政府が経営責任を負わない独立採算制の公共企業体だった。運賃や人事などは国会の承認を必要とする一方、赤字になっても政府が責任を肩代わりしない、いびつなシステムだった。この結果、赤字転落しても国からの補助金の交付より、鉄道債券の発行が優先された。いうまでもなく、国鉄の借金である。

 1982年11月、中曽根康弘率いる中曽根内閣が発足した。中曽根内閣は

・利子で雪だるま式に増えていく巨額債務の解消
・当時日本最大の労働組合だった国鉄労働組合の解体

を目的に、分割民営化の方針を決定。その結果、国鉄は1987年3月31日をもってその歴史を終えた。

分割に反対した国鉄総裁

国労、動労のスト突入で駅構内に張られた組合のスローガン。港区の国鉄品川駅。1980年4月撮影(画像:時事)
国労、動労のスト突入で駅構内に張られた組合のスローガン。港区の国鉄品川駅。1980年4月撮影(画像:時事)

 戦後史を語る中で、国鉄分割民営化の過程は何度も扱われているテーマだが、現代の視点から見ると、

「ローカル線を維持できなくなる分割がなぜ実行されたのか?」

を疑問に思う人も多いだろう。

 分割民営化が中曽根内閣で確固たる政策として確立したのは、1984(昭和59)年8月に政府が設けた「国鉄再建監理委員会」の第2次緊急提言からだ。

 この提言では、国鉄経営の破たんの原因は、経営責任が不明確などの問題点を内包する公社制度のもとで、管理能力の限界を超えた巨大組織による全国一元的運営を行ってきた点にあるとし、

「現行経営形態を維持しなければならない積極的な必要性は見いだしにくい」

と記している。

 分割理由については、多様な交通機関が発達したことで全国交通網の必要性は小さく、国鉄を特別扱いするのではなく、私鉄と同等の公益性を持つ私企業とするためだ。

 この分割案に対して一部の国鉄首脳陣、労組などから、民営化を容認しながらも分割を行わず全国一社体制で、地域ごとの分権・独立採算制を導入する「非分割民営化」案も提示されている。

 分割案は現在の6社に固まるまでさまざまに協議されたが、どのような分割を実施しても、この時点で、ドル箱路線の少ない地域で赤字が積み上がることが予測されていた。首脳陣にも、これを危惧する声が多く上がった。

 例えば、1983年に就任した仁杉巌(にすぎいわお)総裁は民営化に賛同していたものの、莫大(ばくだい)な損失が見込まれる分割には反対。非国鉄分割民営化方針を主張したものの、分割案を進める政府内で孤立し、1985年に辞任に追い込まれている。

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