物流の動脈「日光街道」から、今こそ学ぶべき「災害対策」の重要性【連載】江戸モビリティーズのまなざし(2)

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江戸時代の都市における経済活動と移動(モビリティ)に焦点を当て、新しい視点からそのダイナミクスを考察する。

水害対策と杉並木保存という課題

江戸時代後期、伊能忠敬らが作製した実測地図『大日本沿海輿地全図』の武蔵国の部分。草加(左)から粕壁(右)までが記されている。水害に何度も見舞われたエリア(画像:国立公文書館)
江戸時代後期、伊能忠敬らが作製した実測地図『大日本沿海輿地全図』の武蔵国の部分。草加(左)から粕壁(右)までが記されている。水害に何度も見舞われたエリア(画像:国立公文書館)

 一方で、日光街道には課題も多かった。ひとつは災害対策である。

 埼玉六宿は利根川と平行して町が連なっているため、水害が少なくない。事実、1947(昭和22)年のカスリーン台風によって甚大な被害を受けている。1986年の台風10号でも草加と越谷に溢水(いっすい)氾濫が発生し、記憶に新しいところでは2015年、関東・東北豪雨でまたもや越谷が被害に遭っている。

 実は、同じことが江戸時代にも頻繁に起きていた。利根川沿いは本来、河川の氾濫が起こりやすく、街道の設置に適していなかったのである。にもかかわらず幕府がこのルートを整備したのは、前述の通り湿地帯の開拓を優先したためで、安全面が十分に考慮されていたとはいい難い。

 そこで幕府は、日本橋から川口、岩槻を経て幸手に至る日光御成道(おなりみち)という迂回ルートをつくった。幕府将軍が日光へ参る専用道路で、この道は現在、国道122号の一部だ。

 だが明治以降、主要幹線道路として採用されたのは、水害に見舞われやすい日光道中=4号線のままだった。いまだに水害地域である以上、早急な対策が待たれるところだ。

 もうひとつの課題は、名所・杉並木の保存問題である。杉並木は、厳密には日光街道では大沢~今市間だけで、その先は今市から分岐して日光に至る日光例幣使(れいへいし)街道と会津西街道に立っている。

 家康晩年の側近だった松平正綱(まつだいらまさつな)が、20年かけて植えた松である。東照宮の参道は本来、この並木道だ。江戸時代の主要街道の状態をそのまま残した貴重な道路遺産であるため、現在は一部の区間が車両通行止めとなり、周辺の宅地化も制限されている。

 だが、排ガスや周辺の開発が及ぼす影響など、保存問題は完全に解決されていない。さらに、肝心の杉が老い木化して減少しつつある。倒木の危険も見逃せない。後継樹の生育や補植など、これも対策が必要となっている。

 現代のモビリティ産業や自治体は、こうした課題にどう対処するかが問われているのである。

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