物流の動脈「日光街道」から、今こそ学ぶべき「災害対策」の重要性【連載】江戸モビリティーズのまなざし(2)
江戸時代の都市における経済活動と移動(モビリティ)に焦点を当て、新しい視点からそのダイナミクスを考察する。
埼玉県と栃木県の発展に貢献した道
日光街道は江戸時代以前には奥州道といって、関東から東北へ向かう道だった。江戸幕府が整備を開始したのは、初代将軍・徳川家康が関ヶ原の戦いに勝利した後、1602(慶長7)年頃である。
1616(元和2)年、家康が死去すると、亡きがらはいったん駿河国(現静岡県)の久能山に埋葬されたと伝わるが、翌年、東照大権現(とうしょうだいごんげん)という「神」として祭るため日光へ改葬された。世界遺産・日光東照宮である。
同時に、幕府の拠点・江戸から日光までの道を整備する必要が生じた。そこで、宇都宮までの奥州道を拡充し、宇都宮から分岐して日光に至る道を新たに敷設した。完成したのは1636(寛永13)年頃。以降、江戸から日光までの道をひとくくりに「日光道中」と呼ぶようになった。
東照大権現に参拝するためのいわば「信仰の道」だ。現在は宇都宮までが国道4号、宇都宮から日光までが119号に相当する。
とはいえ、街道筋には21の宿場が置かれ、各宿場には宿泊施設も建設。また、荷物輸送用に人足25人、馬25匹の常備が義務化されてもいた。
街道に近い河川には河岸(船着き場)もあり、船着き場まで街道を通って荷物を運び、河岸で船に積みかえた。荷物は奥州や下野国(現在の栃木県)など各地から運ばれてきた品物もあったが、江戸に運ぶ年貢米が多かったと考えていい。
このことは単なる信仰の道というだけでなく、日光街道が
「物流の動脈」
として機能していた一面を物語っている。
宇都宮~日光に至る新道の造成も、湿地を活用して新田を開発する目的があったと指摘されており、経済発展を同時に担っていた。埼玉県と栃木県のその後に、多大な貢献を果たしてきた道といえる。