世界が注目し始めた日本の「余白の美」体験【連載】平和ボケ観光論(2)
「何もしない」時間の魅力

「平和ボケ」という言葉は、これまで危機感の欠如や無防備さを戒める自虐的な表現として使われてきた。しかし、人の移動を前提とする観光の視点で捉え直すと、その意味は大きく反転する。世界各地で移動に緊張と警戒が伴う現代において、防衛本能をほぼ解除した状態で滞在できる環境は、他国がどれほど投資を重ねても容易に再現できない希少な資産である。本連載「平和ボケ観光論」では、この環境をインバウンドの心身を回復させる世界屈指の安全インフラとして再定義する。自嘲の対象とされてきた「平和ボケ」という空気が、いかにして世界が渇望する「最高の贅沢」へと転じるのか。各地での体験を通じ、その価値を多角的に掘り下げていく。
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仕事や家事、雑務に追われて心身の疲れを感じたとき、日本人が温泉に浸かってゆっくりしたいと思うのは自然な欲求だ。この「ゆっくりする」という行為は、移動の手を止めてあえて何もしない時間を持つことであり、日本独自の穏やかな社会環境があればこそ成立する過ごし方といえる。見知らぬ土地での滞在は本来、身を守るための警戒心が無意識に働くものだが、日本の静謐な環境はその防衛本能を穏やかに解きほぐす力を持っている。
日本には、温泉宿や温浴施設をはじめ、休息を目的とした滞在を提供する場所が数多く存在する。温泉旅館の浴衣を着て温泉街を散策する体験は、訪日客にとっても、異国の地でありながらこれほどまでに緊張感を捨てて歩けるという驚きを伴う安らぎとなっている。2021年9月に閉館した「東京お台場 大江戸温泉物語」では、好みの浴衣を選んで湯上がりに過ごすスタイルが、特に訪日客から高い支持を得ていた。宿泊を伴わなくても、スーパー銭湯などの施設で一日をゆったりと過ごす選択肢は、旅の緊張を解きほぐすための有効な手段となる。
また、温泉だけでなく、漁師町の民宿で地元の食を味わったり、寺院での座禅や宿坊を体験したりすることも貴重な経験だ。森林浴や日本庭園で静かな景観に浸る時間は、情報過多な現代人が抱えるストレスを和らげてくれる。外部に対する警戒に費やしていたエネルギーを、自己の回復へと100パーセント転換できる環境は、現代の旅行者が求める究極の安らぎである。デジタル化が進み、常に情報にさらされるなか、意図的に外部との接触を断つ「デジタルデトックスツアー」の試みは、心身を本来の状態へと戻す回復の旅として、今後さらに重要性を増していく。