ドイツ「エア・ベルリン」はなぜ破綻したのか? LCCとフルサービスの狭間で迎えた悲劇的結末、39年の歴史を振り返る

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エア・ベルリンは1978年に設立されたハイブリッドエアラインで、かつては欧州のトップ10に入る旅客数を誇っていた。しかし、2009年以降の成長戦略の失敗や競争の激化が影響し、2017年に倒産してしまった。39年間の歴史に幕を閉じることになったのだ。顧客のニーズと従業員の忠誠心の乖離が、存続の道を閉ざす結果となったという教訓がある。

新空港の開業遅れと競争激化

2007年のLTUの買収後、エアバスA330-200(写真)がエア・ベルリンの航空機の一部となった。この長距離用航空機により、同社はバンコク(この場合は2008年のスワンナプーム国際空港へのアプローチ)のような大陸間路線への就航が可能となった(画像:Jakkrit Prasertwit)
2007年のLTUの買収後、エアバスA330-200(写真)がエア・ベルリンの航空機の一部となった。この長距離用航空機により、同社はバンコク(この場合は2008年のスワンナプーム国際空港へのアプローチ)のような大陸間路線への就航が可能となった(画像:Jakkrit Prasertwit)

 しかし、2009年以降、ベルリン・ブランデルブルク国際空港で防火設備の大規模な不備が発覚し、開港時期が不透明な状況に陥った。この問題により、エア・ベルリンの成長戦略は大きく狂ってしまった。

 さらに、2000年代以降の欧州航空市場では、エールフランス・KLMグループやルフトハンザグループ、IAGなどが国境を越えた経営統合を進め、巨大なネットワークを築いていた。これらの航空会社は、アライアンスやネットワークの力を生かしてサービス改善に努め、競争力を高めていた。

 一方、LCC業界でもライアンエアーやイージージェット、ウィズエアといった企業が成長を続け、エア・ベルリンを追い込む形になった。エア・ベルリンもドイツ語圏の航空会社を次々と買収して巨大化していたが、効率化に成功したフルサービスキャリアや巨大化した他のLCCに押されて、客数が減少していった。

 この影響もあって、2006年の株式上場では1株15~17ユーロほどの価格を予定していたが、実際には1株12ユーロにしかならず、株式市場からの資金調達もわずかな額にとどまった。リーマンショックが起こった2008年以降は赤字に転落し、2011年からは乗客も減少を続け、厳しい状況が続いた。

エティハドの資本参加

ボーイング737-222、エア・ベルリンJP7687422(画像:Aldo Bidini)
ボーイング737-222、エア・ベルリンJP7687422(画像:Aldo Bidini)

 こうした状況のなかで、エア・ベルリンはアブダビを拠点とするエティハド航空から資本を注入された。2011年にはエティハド航空が29.1%の株を保有し、翌2012年には黒字転換を果たした。

 この年にはJALも加盟する航空連合「ワンワールド」への加盟が実現し、ネットワークの拡大が期待されたため、一時的に復活したように見えた。

 しかし、その試みは局面を打開することはできず、2013年には再び赤字に転落した。2016年には7億8190ユーロの赤字を計上し、翌年にはエティハド航空の支援も打ち切られた。これにより、エア・ベルリンは債務不履行に陥り、最終的には倒産してしまった。

 機材や人員などの多くの資産はルフトハンザが引き継いだが、2017年10月27日には最終運航を迎え、39年の歴史に幕を閉じた。

 同社がハブとして多くの国際線を運行する予定だったベルリン・ブランデンブルグ国際空港は、なおも延期が続き、最終的にはエア・ベルリン倒産から約3年後の2020年に開業した。

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