忘れられた「リニア計画」 今から30年前、横浜にも計画が“浮上”していた!

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リニア中央新幹線の建設に関する動きは、かつての横浜ドリームランド線の教訓を思い出させる。1992年にはHSST計画が持ち上がり、運行再開への期待が高まった。しかし、経営問題や環境影響評価の遅れが原因で進展は見られず、最終的には2003年に計画は廃止された。この夢の鉄道計画は多くの住民を翻弄し、今ではその跡地が大学に変わる運命を辿っている。

ダイエーの経営悪化が直撃

ドリームランドの跡地に作られた横浜薬科大学のウェブサイト(画像:横浜薬科大学)
ドリームランドの跡地に作られた横浜薬科大学のウェブサイト(画像:横浜薬科大学)

 だが、こうした発表から程なく、暗雲が漂う。1997(平成9)年5月31日付の神奈川新聞は、

「着工の気配 一向になく」

の見出しで伝えた。

・事業者による環境影響評価の準備書提出が遅れている
・1995年の阪神淡路大震災を踏まえ、橋脚全てを造り直す

ことなどが理由とされた。沿線住民から、電磁波への影響を懸念する声も上がっていたという。

 加えて、事業者の経営問題が直撃してしまった。ドリームランド線の運休中、親会社の日本ドリーム観光は流通大手のダイエーの傘下となっていた。HSSTによる再開が模索されていたのは、折しもダイエーの経営が急速に悪化していった時期に重なる。

 1998年、ダイエーは上場後初の経常赤字となり、経営再建を迫られた。同年2月27日付の神奈川新聞は、ダイエーが2兆6000億円に上る負債圧縮の一環で、不動産売却の計画を立て、横浜ドリームランドがその候補になったことを伝えた。200~300億円と見積もられた「HSST化」の実現性は、この時点で急にしぼんだ。

 2002年2月には、横浜ドリームランドがついに閉園。同年8月になって、ダイエーはドリームランド線の運行再開の断念を正式に発表した。1967年以来、「休止」が続いていた同線が「廃止」されたのは2003年のことである。

 数十年にわたって待望され、一時はリニアという「未来の乗り物」への飛躍も約束された不遇の鉄道の「夢」は、多くの人たちを翻弄したまま、こうしてついえた。ドリームランドの跡地は横浜薬科大学に変じた。道路は着々と改善され、渋滞の原因だった原宿交差点が立体化されたことで、大船駅までのバスの所要時間は大幅に改善された。

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