忘れられた「リニア計画」 今から30年前、横浜にも計画が“浮上”していた!
横浜の交通革命と葛藤
静岡工区の着工を巡り話題となっているリニア中央新幹線。新時代の「夢の超特急」には、紆余(うよ)曲折が付きまとう。
30年余り前、横浜でも「リニア計画」を巡る曲折があった。リニア中央新幹線ほどの高速で走る乗り物でこそないが、地域に欠かせない便利な交通手段として導入が期待されていた。
首相を務めた菅義偉氏も、横浜市議時代に開業に向けて気をもんだひとりだ。沿線住民を期待させ、翻弄(ほんろう)もさせた「リニア計画」は、戦後流通の「覇者」の没落と密接に関わっていた。その過程を、当時の報道などで振り返る。
「休止」路線にHSST構想
「リニア案も“浮上”」
1992(平成4)年6月3日付の神奈川新聞の見出しだ。記事は次のようなものだった。
「日本ドリーム観光(大阪市中央区)が、横浜ドリームランド(横浜市戸塚区)とJR大船駅を結んだモノレール路線跡(全長五・三キロ)に地域交通を再開させる構想が二日までに明らかになった。(略)常電導磁気浮上式リニアモーターカー(HSST)の利用も有力案として検討されている」
記事にあるモノレールとは「ドリームランド線」のことである。東海度新幹線が開業し、東京五輪が開催された1964(昭和39)年、横浜市戸塚区に開園した遊園地「横浜ドリームランド」への交通の便を図るため、開通した跨座式モノレール(車両の下にレールがあり、そのレールに車両がまたがっている形態のモノレール)である。遊園地を経営した日本ドリーム観光の子会社であるドリーム交通が運行を担った。
同線は、国鉄大船駅の西口から横浜ドリームランドまで、5.3kmをわずか8分で結んだ。しかし、開業から1年余りで
・車両の重量超過
・コンクリート製橋脚の損傷
が発覚。運行休止の憂き目に遭ってしまった。
その責任は裁判で争われた。運行主体のドリーム交通は設計ミスを訴えた一方、設計した東京芝浦電気(現・東芝)は、ドリーム交通によるルート変更にも責任があると主張。双方譲らず、和解成立まで実に14年も費やした。車両や施設は長い間うち捨てられ、廃虚同然に。列車の走らないモノレールの軌道や橋脚が丘陵地帯に延々と連なる様子は、廃虚愛好家に知られた存在だった。