東京から「怪しい街」が次々と消えていく根本理由 安全・便利・快適だけで本当にいいのか?

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東京の街では、再開発や都市開発の波が急速に押し寄せ、かつての風情や独特の雰囲気を持った街並みが徐々に姿を消しつつある。多くの人々にとって、都市の発展や利便性は歓迎すべきものだが、同時に、どこか懐かしさや哀愁を感じさせる「怪しい街」へのニーズも根強い。

「怪しい街」の軌跡

「怪しい街」のイメージ(画像:写真AC)
「怪しい街」のイメージ(画像:写真AC)

 東京にはいくつもの「怪しい街」がある。読者にイメージを持ってもらうために、その例をいくつか挙げてみよう。

●新宿ゴールデン街
 ここは1957(総和32)年まで青線地帯(営業許可を得ずに売春が行われていた飲食店群)だったが、ほとんどの建物がそのまま転用されている。大小合わせて約200の店舗がある。西新宿「思い出横町(しょんべん横町)」とともに、戦後の闇市の雰囲気を今に伝えている。今でこそ観光名所となっているが、かつてはマスコミ関係者や文化人などが多く、敷居は非常に高かった。また、個性的な店ごとに独自のルールがあるのが普通で、一種の「ムラ」を形成していた。かつては客引きがのさばり、ぼったくり店も日常茶飯事だった。“大人のマナー”を知らなければ入ることができなかったのだ。

●赤羽
 赤羽駅は1885(明治18)年に開業した。戦前は陸軍施設や関連工場があり、早くから商店街が発展していた。戦後、大規模な団地が建設され、商店街はさらに発展した。労働者が多かったこともあり、今でも飲食店の占める割合は大きい。駅前の赤羽一番街商店街の場合、店舗の4割近くが飲み屋である。近年は「せんべろ街」としてにぎわい、再開発計画も進んでいる。「せんべろ街」がブームになった頃、地元の人々は混雑を嫌って十条に逃げ込んだ。

●南千住
 激変した「怪しい街」の典型例。南千住駅は日雇い労働者の街・山谷の最寄り駅だったため、21世紀になってもガード下には新左翼団体のビラがたくさん貼られ、独特の雰囲気があった。しかし、駅周辺は隅田川貨物駅の再開発でタワーマンションが立ち並び、整然としたニュータウンに変貌した。山谷でも近年はバックパッカー向けの宿が中心になり、飲み屋で女性客を見かけることも珍しくなくなった。

 以上のように、東京の多くの「怪しい街」が変化し、その数を減らしていることはいうまでもない。さて、その理由はどこにあるのか。

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