業界に漂う閉鎖的構造の背景【連載】開かれたF1社会とその敵(1)

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F1は参戦規定が厳格化。その歴史的背景から技術力向上や経済効果のためにチーム数の制限が強まっている。

エクレストンの登場

ドイツ語で書かれたバーニー・エクレストンの関連書籍(画像:デリウス・クラッシング)
ドイツ語で書かれたバーニー・エクレストンの関連書籍(画像:デリウス・クラッシング)

 チームは主催者と交渉しなければならなくなり、1972年にブラバムのオーナーとなったバーニー・エクレストンがチームの代表として重責を担うことになった。元F1ドライバーでビジネス経験もある彼は、1978年にF1チームによって結成されたF1製造者協会(FOCA)の会長に就任した。

 FOCAはFIAやその関連団体の国際自動車スポーツ連盟(FISA)と対立していたが、最終的には1981年にFOCAとFISAの間でコンコルド協定(基本的には非公開)が結ばれ、FOCAがF1の興行を仕切ることになった。

 エクレストンはたぐいまれな商才を発揮した。

 会長就任から2年後の1980年までには、消滅したシャドーを除く全チームが全戦に参戦するようになった。1981年のコンコルド協定によって、スケジュール上のグランプリに参戦しなければならないことが明確になった。

 エクレストンは全戦出場を義務付けることで、選手権に安定感をもたらした。そうすることで、テレビ局は放送しやすくなる。そう、これがいわゆる放映権料ビジネスである。

 スポーツビジネスの根幹のひとつである多大な放映権料は、米国では1980年ごろからスポーツの衛星放送によって収益化され始め、1984年のロサンゼルス五輪で加速した。

 エクレストンはその流れをとらえ、F1にも応用した。その結果、視聴者を増やし、スポンサーを集め、開催地を日本を含む東アジア、東南アジア、中東にまで拡大し、欧州色が強かったF1を“真の世界選手権”へと導いた。

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