江戸を支えた水の道! 「利根川水運」の興亡と商業革命とは【連載】江戸モビリティーズのまなざし(22)

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利根川水運は、農産物や一般商品を安価で運び、江戸へと供給した。江戸時代の交通・運輸の中心地として、利根川は重要な役割を果たした。

利根川水運の競争と躍進

利根川水運によって栄えた河岸のひとつ、木下河岸(千葉県印西市)。奥に立ち並んでいるのが河岸問屋だ(画像:利根川図志/国立公文書館)
利根川水運によって栄えた河岸のひとつ、木下河岸(千葉県印西市)。奥に立ち並んでいるのが河岸問屋だ(画像:利根川図志/国立公文書館)

 最後に、「どのように」――。

 ここでのキーが、前の段にある「河岸問屋」だ。米輸送を請け負う民間業社である。問屋はその収入を守るため各地の領主と結びつきを強め、明暦期(1655~)には運上金(営業税)を収めることになっていた。

 なぜ運上金が必要だったのか――。

 船荷は次第に年貢米にとどまらず、商人に依頼された大豆・たばこ・麻・木材など一般商品も加わっていた。河口の銚子や九十九里でも、干しいわし、〆かす(魚を乾燥して作った魚肥)、魚醤(ぎょしょう)などが、利根川から内陸の各地に運ばれるようになった。

 そうして船荷が多様化した結果、一般商品の運搬専門の問屋が新規参入し、年貢米を運ぶ旧問屋との間で紛争が起きたのである。運上金はそうした衝突を解決してもらうためのものでもあった。

 1707(宝永4)年、野尻河岸(千葉県銚子市)で新旧の問屋が衝突し、裁定によって旧勢力が優位を保つことができたとの記録がある。

航行していたのは高瀬船と呼ばれる帆船

布川(茨城県北相馬郡)のにぎわいを描いた絵。10月(旧暦)には地蔵市と呼ばれる市がたち、商業の町として栄えた(画像:利根川図志/国立公文書館)
布川(茨城県北相馬郡)のにぎわいを描いた絵。10月(旧暦)には地蔵市と呼ばれる市がたち、商業の町として栄えた(画像:利根川図志/国立公文書館)

 武士はこうした調停を行う程度で、他は問屋に任せ、問屋は農民の年貢や商人の支払いで収入を得ていた。

・布川(茨城県北相馬郡)
・松戸(千葉県松戸市)

などはこうしたシステムのもと、商人や物を作る職人なども定住し、

「河岸 = 湊にとどまらない町 = 商業地」

として繁栄していった。

 輸送に使った船についても解説しよう。

 利根川を航行する船は「高瀬船」と呼ばれていた。大きさはさまざまだったが、最大で1200俵まで積むことが可能だったという。

 高瀬船は帆を張り、風を受けて走った。風がないときは人力で、水主が6~7人でこいだ。

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