江戸を支えた水の道! 「利根川水運」の興亡と商業革命とは【連載】江戸モビリティーズのまなざし(22)
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驚くほど安かった水運従事者の賃金
次に「誰が」――。
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利根川で繁栄した河岸のひとつ、堺河岸(茨城県猿島郡境町)を例に見てみよう。ここは、利根川と江戸川の分岐点に位置する関宿城(関宿藩の政庁)の城下にあり、日光・奥州道中の脇街道も通っていた交通・流通の要衝だった。
1833(天保4)年の『堺河岸住人職業別構成表』が現存している。それによると人口は1851人で、うち「船持」(船の所有者)が297人。「舟乗」(船頭など)、「小揚」(船に積んだ荷物を陸揚げする人足)、「日雇」(一時雇用の人足)が合わせて491人。合計788人で、人口の43%が水運に携わっていた。
また、人足たちをあっせんする、現代でいう派遣業者も156戸(軒)。対して農民は226人にすぎない。堺河岸は明らかに田畑を耕して生計をたてる「農村」ではなかった。
馬の両側に米俵を積んで陸を運搬する場合、一度にせいぜい2俵しか運べなかったが、利根川では小型の船でも60俵くらいは積んで航行したという。つまり「水運」は効率的で、低コストで済んだ。
逆にいえば労働者の賃金も安かった。おそらく当時にあって最底辺の収入しか得られなかったと考えられる。『河川に生きる人びと 利根川水運の社会史』は、船頭・水主(かこ/水夫のこと)の賃金は日当100文足らずだったろうと記している。
100文を現代の価値に換算すると、いくらになるのか――。江戸時代の貨幣価値は時代によって異なるため、ここでは『江戸の勘定』(大石学/MdN新書)にある
「1文 = 30円」(文政年間/1804~1840)
を基準とする。そうすると、100文は3000円となる。これが船に乗る船頭・水主の1日の報酬だった。荷揚げ場で積み荷を運ぶ人足は、さらに低かったかもしれない。
当然、家族は養えない。独身男性が多く、家も「店借」(借家)だ。現代の運送業に関わる個人事業主をほうふつとさせる。
また、そもそもこうした輸送コストを誰が負担したかというと、実は農民だった。船に乗せる荷物の大半が、農村から徴収される年貢米だったため、夫役(ぶやく/労働課役)も農民負担というのが原則だったのである。
例えば年貢米を江戸に輸送する運賃を米10俵とすると、その分をあらかじめ年貢米から差し引いていた。農民たちが10俵を料金として「河岸問屋」(運送業社)に渡すという形をとるわけだ。こうしたシステムが、寛永期(1624~)には定着していたという。