能登地方はかつて「物流の大動脈」だった! 知られざる北前船の近代史を振り返る
かつて日本海航路は日本の「物流の大動脈」であり、能登の福浦は現在の福井県、石川県、富山県の西回り航路の唯一の寄港地として選ばれた。北前船の船主たちは、それぞれの地元や北海道の経済発展に大きな影響を与えた。
時国家と北前船

能登を拠点とした北前船の船主もいた。能登には、平時忠(たいらのときただ)の子孫といわれ、能登半島の先端の曽々木海岸地域で戦国時代から豪農として活躍した時国家がある。
江戸時代に上時国家と下時国家に分離したが、上時国家はさまざまな事業にも参入し、北前船の経営も行っていた。上時国家は少なくとも1840年代から北前船経営を行っており、1850年代になると北海道の奥地や樺太にまで赴き、魚肥や昆布などを買い付け、大坂で売却していた。
歴史家の網野善彦氏は、『日本の歴史をよみなおす(全)』(ちくま学芸文庫)のなかで、この時国家の調査を通じて農民のなかの非農業民の存在に注目している。なお、上時国家の住宅は国の重要文化財に指定されていたが、残念ながら今回の地震で倒壊してしまった。
明治時代に能登に拠点を持つ北前船主として最大の規模を誇ったのが一の宮の西村家であった。西村家忠兵衛は、水夫からのたたき上げで、1850年代には自らの船を持つようになったと考えられている。
1862(文久2)年に大坂に問屋店を持つと、北海道から魚肥を運び大きな利益を得た。明治になっても事業の拡大は続き、大阪松前問屋一番組に加入すると、1889(明治22)年には問屋組合の取り締まりを務めるまでになった。当時の大阪財界では浪速財界の三羽がらすとして
「銀行の鴻池、鉱業の古河、海運の西村」
と呼ばれたという。