能登地方はかつて「物流の大動脈」だった! 知られざる北前船の近代史を振り返る

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かつて日本海航路は日本の「物流の大動脈」であり、能登の福浦は現在の福井県、石川県、富山県の西回り航路の唯一の寄港地として選ばれた。北前船の船主たちは、それぞれの地元や北海道の経済発展に大きな影響を与えた。

三井物産と地元組合の競争

福浦港の位置(画像:OpenStreetMap)
福浦港の位置(画像:OpenStreetMap)

 北前船は、明治になって交易場所が松前、箱館、江差の三つの湊に限らなくなったため、北海道の奥地に赴きニシン魚肥を直接買い付けるようになった。ニシンへの需要の高まりとともに、三井物産も函館(明治になって箱館 → 函館となった)と小樽に支店を設けてこの事業に参入している。

 これに対して、

・北海道の海産物商
・北前船主
・大阪の廻船問屋

は協同組合をつくって対抗した。海産物商は共同で商社を設立して漁獲物の集荷競争を行い、石川県・福井県の北前船主が中心となって作られた北陸親議会という組合が取引慣行を統一し、大阪の廻船問屋の組合との間で排他的な取引関係を結んだ。

 幕末・維新期にニシン魚肥の価格差を利用して巨額の資金をため込んでいた北前船主たちは、海産物商の組合に前渡しで買い付け資金を渡し、大阪では魚肥の代金の支払いを後日払いにすることで、資金融通も行った。こうしたこともあり、三井物産は十分なシェアを取ることができずに19世紀末には一時この事業から撤退している。

 このように明治になっても北前船は存在感を示しており、能登の湊も北前船でにぎわった。本書の79ページに掲載されている能登国福浦港佐渡屋「客船帳」を見ると、北海道の船主の船が数多く入港していることがわかる。

 1908(明治41)年の時点でも、福浦には年間約2500隻、小木(能登半島の東側にある湊)には年間4300隻の帆船が入港していたという。金沢を中心とした加賀の一帯は平たんな海岸線が広がっており、能登半島の湊は風待ちのための湊として非常に重要だったのだ。

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