能登地方はかつて「物流の大動脈」だった! 知られざる北前船の近代史を振り返る

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かつて日本海航路は日本の「物流の大動脈」であり、能登の福浦は現在の福井県、石川県、富山県の西回り航路の唯一の寄港地として選ばれた。北前船の船主たちは、それぞれの地元や北海道の経済発展に大きな影響を与えた。

「北前船」の定義

松前城の位置(画像:OpenStreetMap)
松前城の位置(画像:OpenStreetMap)

 まず、北前船とはいかなる船なのか。

 北前船研究の中心的な担い手だった牧野隆信(りゅうしん)は、18世紀後半から19世紀に日本海航路で活躍した北陸船主の船」とし、その特徴を船主が港で商品を買い付けて、別の港に運んで販売するという「買積(かいつみ)」という活動に見ている。買積は、商品を運んで運賃をもらう「運賃積」にくらべてハイリスク・ハイリターンな経営形態になる。

 ただし、このような活動を行っていたのは北陸の船主だけには限らない。そこで本書では、北前船を

「本州・四国・九州などに拠点を持ち、18・19世紀に北海道へ進出した商人船主の船」(4ページ)

と定義している。これにより本書では瀬戸内海や畿内の廻船問屋も考察の対象としている。

 江戸時代の北海道(蝦夷島)では、松前藩が場所請負制という制度のもと、松前城下や箱館湊、江差湊の商人に漁業やアイヌとの交易を行わせていた。やがて、この場所請負に近江商人などが参入してくることになる。1780年代になると老中の田沼意次が北海道の開発を計画したこともあり、江戸商人も進出するようになり、さらには司馬遼太郎『菜の花の沖』でも有名な兵庫の高田屋嘉兵衛(かへえ)をはじめ上方の商人も参入していった。

 現在の北海道の海産物といえばサケやカニなどが思い浮かぶが、19世紀の北海道漁業の中心はニシンであった。ニシン(鯡)は「さかなへん」に「非(あらず)」と書かれたように、主に食用ではなく肥料として用いられた。水揚げされたニシンの大きなものは身を裂かれて身欠きにしんとなり、残りの背骨、頭部、腹部などが肥料に用いられた。また、小さめのものは釜で煮られ、油分と水分を絞られた残りが〆かすとして肥料に用いられた。この肥料が主に日本海航路の北前船によって各地に運ばれ、日本の農業を支えた。

 明治になって場所請負制がなくなると、多くの漁民が北海道に移り住んで漁業に従事するようになるが、旧場所請負人も旧請負場所に拠点を設けて漁業を続けた。1880年代になると江戸時代に魚肥の中心であった房総半島のいわし漁が不漁に陥り、ニシンの魚肥への需要が一段と高まった。

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