「負の遺産」を活用した観光まちづくりで、地域は幸せになれるのか?【リレー連載】平和産業としての令和観光論(3)
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鉱毒問題の拡大と悲劇
足尾銅山は16世紀後半に採掘が始まり、1610(慶長15)年からは江戸幕府の直轄支配下で開発が進められたが、江戸時代中頃より生産量が次第に減少し、幕末から明治時代初期にかけてはほぼ閉山状態に陥った(日光市ウェブサイト)。
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明治期に入ると足尾銅山は明治政府へ所有権が移行し、1872(明治5)年に民間に払い下げられ、さらに1877年に古河市兵衛へと譲渡された(同ウェブサイト)。しばらくは産銅量が年間100tにも満たない厳しい状況が続いたが、1881年の鷹之巣直利(富鉱)、1884年の横間歩大直利の発見、および西洋の先端的な技術の導入により生産量を増やし、昭和初期まで続く最盛期を迎えた(同ウェブサイト)。
しかし、明治期に繁栄を極めた足尾銅山では当時、深刻な問題が発生していた。すなわち、わが国初の公害事件とされる「足尾鉱毒事件」である。
1890年8月に起きた渡良瀬川の大洪水による流域の農作物被害が契機となって鉱毒問題が顕在化し、さらに1891年12月の第二回帝国議会において、田中正造が鉱害問題について質問したことにより、大きな社会問題として認知されることとなった(同ウェブサイト)。
農作物の不作などの被害が続く状況に業を煮やした農民たちは、田中正造が主導して、雲龍寺(群馬県邑楽郡渡瀬村(現館林市))に置かれた「栃木・群馬両県鉱毒事務所」に1897年3月2日に結集し、東京へ請願に押し掛けた(「第1回押し出し」)。
その後、同月24日の「第2回押し出し」、1898年9月26日の「第3回押し出し」が決行されたが、状況が好転することはなかった。そして、1900年2月13日、「第4回押し出し」の中、2500人余りの農民と警官隊が群馬県邑楽郡佐貫村川俣(現明和町)で衝突し、多くの犠牲者を出した「川俣事件」が発生する(明和町ウェブサイト)。事件現場付近には「川俣事件記念碑」が建っている。