ライドシェアは「白タク」の別名にすぎない! そもそも80~90年代、“暴力団の資金源”だったことを忘れたのか
ちらつく暴力団の影

何よりも問題だったのは、白タクの運行会社である。白タクは暴力団が“シノギ”として直接的もしくは間接的に関わっているケースが多かった。地域によっては、
「白タク = 暴力団」
が常識で、誰も文句をいえなかった。『朝日新聞』1993年3月7日付朝刊にその一例がある。
「「白タク」を組織する暴力団もいる。中山競馬場の付近に10台前後の白タクが現れる。競馬場からJR西船橋駅まで1台に3~5人乗せ、1人から1000円前後を取る。正規のタクシーなら、せいぜい700円。地元のタクシーは「白タクは暴力団がショバ代を取ってやらせているから、文句も言えない」と話す」
こうした白タクの横行に対し、警察当局は厳しい取り締まりを行っている。
例えば、1989(平成元)年2月に報じられたJR津田沼駅南口での事例だ。習志野署の取り締まりと看板作戦が功を奏し、「白タク乗り場」と呼ばれていた場所から白タクが姿を消したことが話題になった。習志野署は白タクを道路運送法違反で摘発し、駅前に
「命が惜しくありませんか」
と警告する看板を設置して徹底的に排除した。
白タク横行のもうひとつの理由として指摘されているのが、バブル期以降の運転代行業の急増だ。運転代行業が登場したのは1975(昭和50)年頃。電話をかけると、ふたり1組のドライバーが1台の車で客を迎えに来る。ひとりが客の車を運転し、もうひとりが自分の車を運転して客を目的地まで運ぶシステムで、特に地方都市で業者が急増していた。
事業者の急増にもかかわらず、1980年代には規制の枠組みが作られなかった。客の車を使って運転するという特殊な営業形態のため、運輸省も警察庁も
「うちの所管である」
ということでバラバラに行政指導を行っていた。結果、監視も不十分で、認可制度などの法的枠組みもなかった。そのため、暴力団が資金源として運転代行業を営み、白タク業者と兼業するケースも多かった。