なぜ日本はタクシーに執着するのか? ジャーナリストの私が京都で感じたライドシェアの可能性、忌避論はもはや病理である
なぜ日本はライドシェアの先進事例を拒否するのか。もはや「できない理由を探し続ける」症候群なのだろうか。
言葉と通貨の不安解消

ウーバーアプリ利用のメリットは、外国人観光客でも
「言葉や通貨の苦労なしに移動できる」
ことで、筆者が以前現地で使ったときのドライバーも、言葉が通じない外国人を乗せた経験があったそうだ。さらに
「初期投資がほぼ不要である」
こと、ウーバーのデータが日報代わりとなるので
「事務作業が軽減されている」
こともメリットに挙げた。
運転は、一部のタクシー運転手より信頼の置けるものだった。ドライバーになった理由を聞くと「地域の高齢者の移動を支えたいから」という答えが返ってきた。まさに「ささえ合い交通」だ。多くのドライバーがパートタイムで移動を支える方式も、地方に合っていると感じた。そして自分自身、人を乗せての運転はより気を遣うことからも、相応の報酬を支払うべきだと思った。
海外でもフランスのように、かつては禁止していたライドシェアを推進している国もある。マイカーは運転手ひとりで移動する場合が多く、CO2排出増加につながるので、1台あたりの乗車人数を増やすことで、排出削減を狙っているという。ライドシェアは
「環境対策」
でもあるのだ。
しかも日本にはささえ合い交通以外にも先進的な事例がいくつかあり、安定した運行が続いている。ここまで時代が動いているのに、なぜ拒むのか。今の日本にまん延している
「できない理由を探し続ける症候群」
は深刻だ。