「水害都市」だった江戸 その歴史から災害対策に生かす術を考える【連載】江戸モビリティーズのまなざし(18)
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江戸時代の都市における経済活動と移動(モビリティ)に焦点を当て、新しい視点からそのダイナミクスを考察する。
死者10万人を出した幕末の安政台風

水害に遭った地区は、『箕輪金杉三河しま』だけではない。詳細な記録は残っていないものの、現在の山手エリアでも水害は起きたと考えられる。地名から、うかがえるのだ。
例えば、渋谷・阿佐ヶ谷・世田谷・荻窪。
「谷」「窪」
が入った地名は標高の低い谷地を示し、大雨が降れば増水した川から、水が流れ込んでくる。
落合も「水が合流する」場所の意味で、池袋・沼袋の「袋」は川が屈曲している場所を指し、水がたまりやすい。読み慣れた地名が、実は水害多発エリアを表していたことにあぜんとする。
江戸は河川の氾濫と同時に、高波の被害も多かった。
1856(安政3)年に江戸を襲った大洪水は、高波が原因だ。伊豆半島に上陸した台風が関東に向けて北上し、深川・洲崎・佃島といった沿岸に近い地域や、芝高輪・品川海岸などが、甚大な被害を受けた。『安政風聞集』は、洪水で海のようになったなかを、無情にも流されていく人々を描いている。
波の高さは推定2.5~3.2mで、1959(昭和34)年の伊勢湾台風に匹敵する猛威だったという。
幕末から明治にかけての地誌『武江年表(ぶこうねんぴょう)』は、
「近年稀なる大風雨にて、喬木(きょうぼく)を折り、家屋を損じ、浪(波)がみなぎって、大小の船を覆し岸に打ち上げた。この間、しばしば火光を現し(火災も起き)、溺死者と怪我人を弄んだ」
と、悲惨な様子を記す。
1871(明治4)年刊の歴史本『近世史略』(きんせいしりゃく)によれば、死者は10万人だった。