「岐阜市」周辺が衰退した本当の理由 路面電車の廃止だけじゃなかった!

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岐阜県唯一の百貨店である岐阜高島屋が2024年7月、閉店する。岐阜市はいわずもがな、岐阜県の県庁所在地である。そんな都市ですら百貨店が撤退するまで衰退しているのだ。

岐阜市の衰退

岐阜駅(画像:写真AC)
岐阜駅(画像:写真AC)

 岐阜県唯一の百貨店である岐阜高島屋(岐阜県岐阜市)が2024年7月、閉店する。ビル所有会社と設備の更新をめぐっていさかいがあったためだ。岐阜市はいわずもがな、岐阜県の県庁所在地である。そんな都市ですら百貨店が撤退するまで衰退しているのだ。

 岐阜県の県庁所在地、岐阜市は城下町、宿場町としての起源を持ち、戦後は繊維問屋の集積地として発展してきた。2023年10月1日現在の人口は40万1005人。県内第2位の大垣市よりも人口規模ははるかに大きい。

 岐阜市は、東濃地域を除く県内各地への主要な交通結節点としての役割を果たしており、市の経済的動向は岐阜県全体に影響を与える関係性にある。

 かつて市内を走っていた路面電車・岐阜市内線の廃止(2005年)を岐阜市衰退の決定的な要因と考える人が多いが、それは正確ではない。岐阜市衰退の兆しはそれ以前から見えていたのだ。

岐阜市の再開発課題

岐阜駅北口(画像:写真AC)
岐阜駅北口(画像:写真AC)

 戦後、岐阜市の産業構造の中心は繊維問屋業にあった。空襲で市街地の大部分が焼失した後、焼け跡に立てられたバラックで古着を扱う「ハルビン街」が形成され、これが繊維問屋街の始まりとなった。繊維問屋業は市の基幹産業として成長したが、街の魅力を高める方向性はなかった。

 16年間にわたって岐阜市長を務めた細江茂光は、繊維問屋街の問題点をこう語っている。

「「前売り」という販売形態も手伝って、問屋街における昼間の賑わいは相当なものでありましたが、閉店後、そこに住む者のない街は、いわばゴーストタウンと化してしまうのです。また、「卸売り」自体が基本的には市民の日常生活とかけ離れた商業施設であり、1階店舗部分が賑わいを呈するだけで、上層階は倉庫を主体とした業務流通機能が大部分を占めているために、街区全体のファサードもファッション産業のイメージとはほど遠いものになっていきました」(「岐阜市の都市再生と駅周辺地域のまちづくり」『アーバンアドバンス』No.28)

 問屋街は大小さまざまな業者が集結しており、そのため再開発に関する意見の一致が難しく、問題となった。

 岐阜市は中心市街地における人の集中や渋滞を緩和するため、郊外化を積極的に推進した。この取り組みは国や県との共同で進められてきた。具体的には、県庁は1966(昭和41)年に岐阜駅北口から南口へと移転した。岐阜大学は1972年に移転計画を決定し、1981年からは順次その移転が始まった。また、1986年に西岐阜駅の設置が行われ、この流れはさらに加速した。県立図書館や美術館は西岐阜駅の近くに新たに建設されている。

 これらの動きにより、岐阜市では郊外化が著しく進んだ。そして、郊外での商業活動が拡大するなか、住民が日常的に市街地を訪れる必要性は徐々に減っていった。

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