神戸市人口が150万人割れ 原因は本当に「震災」だけなのか? 衰退するニュータウン、貧弱な子育て施策、そもそも危うかった都市経営モデル
危うかった都市経営モデル

人口増が当時続いていた神戸市では、山を削り、ニュータウンを築き、その土砂で人工島を造成。これによって人口を確保するとともに収益をあげることを狙った。
このもくろみは当初は成功していた。人工島の完成を記念し、1981(昭和56)年に「神戸ポートアイランド博覧会」が開催され、1610万人が来場。60億円を超える黒字を確保している。
この博覧会で、ポートアイランドの名は全国に知れ渡り、企業や大学の進出も増えた。当時、ポートアイランドのマンションに住むことは、関西地区での一種のステータスと見なされていた。さらに1985年のユニバーシアード世界大会も成功し、神戸市は
「株式会社神戸市」
と称され、都市経営の優等生として評価された。
しかしながら、その絶頂期は長続きしなかった。この「神戸方式」と呼ばれたビジネスモデルは、事業資金をスイスフラン債やマルク債などの地方外国債を発行して調達する方式だ。資金を基に造成地を整備し、それを売却して償還するもので、つまり土地が売れなければたちまち破綻するのである。
結果、バブル景気が崩壊すると、土地の価格は急速に下落した。バブル崩壊後の神戸市の低迷は著しく、震災前の1994(平成6)年には既に予算の財源不足額が
「568億円」
に達していた。震災がこの状況にさらなる打撃を与えた。また、復興過程で日本の産業構造が大きく変わり、多くの工場が海外へと移転した。神戸はもともと鉄鋼や造船、繊維、製靴などの多様な産業で栄えていたが、これらの産業の流出と空洞化で、一貫して輸出港だった神戸港の価値も大きく低下した。
輸出部門での神戸港の全国シェアはピーク時の半分以下まで減少している。震災は大きな打撃だったが、それ以上に「神戸方式」からの適切な転換ができなかったことが、神戸市の深刻な問題といえる。