「代官山 = 衰退している」は間違い! 歴史をたどって初めてわかる、代替不可な真の価値とは
最近、この代官山かいわいに変化の兆しが見え始めている。かつての勢いは失われ、駅周辺には空きテナントが増えた。SNS上では代官山の「衰退」がささやかれるようになってきた。代官山は本当に衰退しているのか。
槇と朝倉家の先見性

その後、朝倉家は不動産業を本業とし、1960年代には朝倉誠一郎とその息子である徳道と健吾が中心となって経営していた。
一方、槇は戦後米国に留学し、ハーバード大学などで教鞭(きょうべん)をとった後、帰国して1965(昭和40)年に槇総合計画事務所を開設した。1967年、徳道、健吾、槇の3人は、慶応義塾大学の同窓生という共通のバックグラウンドを通じて友人となった。
当時、朝倉家は旧山手通り沿いの土地にアパートを計画しており、新しいアイデアを求めて槇に設計を依頼した。
槇が提案したプランは画期的だった。旧山手通り沿いは人通りの少ない閑静な住宅街だったが、槇は地形の上り勾配を利用し、道路に接する部分を半地下にすることで、ビジネスに適した環境を提案した。単にアパートを建てるよりも土地を有効活用できるこの計画は、朝倉家の強い支持を得た。
現在の街を生かしつつ、新たな息吹を吹き込むこの開発スタイルは、その後の再開発にも受け継がれている。同潤会代官山アパートの再開発もそのひとつだ。
このような地域の再開発は通常、デベロッパー主導になりがちだが、代官山アパートは住民参加で計画された。その結果、1984年に発表された基本構想案では、住民の反対はほとんどなかった。
「古いものを残しながら新しいものを作る」
という意識が、代官山エリアの魅力を高めたのだ。