「代官山 = 衰退している」は間違い! 歴史をたどって初めてわかる、代替不可な真の価値とは

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最近、この代官山かいわいに変化の兆しが見え始めている。かつての勢いは失われ、駅周辺には空きテナントが増えた。SNS上では代官山の「衰退」がささやかれるようになってきた。代官山は本当に衰退しているのか。

富裕層や文化人が好んだ街の「不便さ」

代官山の街並み(画像:写真AC)
代官山の街並み(画像:写真AC)

 しかし、代官山の不便さは、特に富裕層や文化人にとって独特の魅力として受け入れられた。繁華街に近いにもかかわらず、その静かな住環境は彼らを引きつけてきた。

 1955(昭和30)年に建設された東急代官山アパートは、日本で最初の外国人向け高級賃貸アパートだった。このアパートには江利チエミや左幸子など、当時を代表する著名人が住んでいた。映画『男はつらいよ』で知られる渥美清も、このアパートの住人だったことで知られている(渥美は私生活を秘密にしていた)。実際、彼を含め多くの著名人が代官山を選んだのは、この街が醸し出す独特の控えめさと静けさが理由だった。

 代官山の景観を大きく変えたのは、1969年に旧山手通り沿いに誕生したヒルサイドテラスである。当初は店舗と住宅の2棟で開発が始まり、1999(平成11)年までの30年間に7期にわたって開発が続けられた。

 ヒルサイドテラスの存在により、代官山には洗練されたショップが増え、流行の中心地となった。開発は無計画な拡大を避け、質の高い都市計画を進めた。その結果、代官山は渋谷や原宿のようなにぎやかさとは対照的に、上質で成熟した街としての地位を確立した。

 ヒルサイドテラスは、朝倉家と建築家の槇文彦氏によって実現した、この街に住む人たちの期待と願いを込めたプロジェクトである。朝倉家はかつて甲州武田家に仕えた後、帰農し、江戸時代にはすでにこの地域の大地主であった。

 明治時代(1868~1912年)には米穀商を本業とし、米の売買で得た利益で土地を増やしていった。一族にとって朝倉虎治郎の影響力は大きかった。彼は渋谷の町会議員から東京府会議員に昇進し、特に学校と道路の整備に力を注いだ。例えば、将来の自動車交通量の増加を見越した旧山手通りの拡幅工事は彼の功績である。

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