新幹線建設と並行在来線「切り捨て」問題 背後に隠された複雑な政治的駆け引きとは?
複雑な経緯をたどった廃止

このとき運輸省は、並行在来線はJRの事業から切り離すことを前提に、「実際の取り扱いは着工時までに地元やJRの話し合いで結論を得る」としていた。
初のケースとなった並行在来線の廃止は、複雑な経緯をたどっている。特に問題となったのは、並行在来線である信越本線の難所、横川〜軽井沢間である。1987(昭和62)年、JR東日本は新幹線建設にともない「新幹線建設の場合、横川~軽井沢間は廃止する」と運輸省に報告している。
当初、沿線の群馬県・長野県は並行在来線区間の分離と、横川~軽井沢間に反対する方針を採っていた。一時は横川~軽井沢間を第三セクターとして存続させることも検討されたが、収入の見通しが立たず断念した。
その後も、一部とはいえ信越本線を廃止することに対して沿線自治体では撤回を求める陳情が相次いだ。結局、JRがバス輸送の確保に責任を持つことを約束し、両県は開通前年の1996年1月に横川~軽井沢間を廃止することで合意した(この間、軽井沢~長野間は1991年に第三セクターとして存続することが決まっている)。その後、整備新幹線が開通した地域では、いずれも並行在来線がJRから分離されたが、廃止されたのは横川〜軽井沢間だけである。
また、北陸新幹線の並行在来線区間の動向が決まっていなかった1990(平成2)年2月、政府・自民党は「建設着工する区間の並行在来線は、開業時にJRの経営から分離することを認可前に確認すること」を表明している。
これによって、並行在来線は新幹線開業と同時に廃止されるという前提が新幹線沿線に共有され、沿線自治体がその存続をどう確保するかの責任を負うことは既定路線となった。
この方針に対して、沿線自治体の対応は、早くから行われている。九州新幹線(鹿児島ルート)の全通は、2011年だが、1990年には、鹿児島県と熊本県は早くも並行在来線の扱いについてJR九州と協議している。この時点で、赤字必至の並行在来線をJR九州が引き受けられないことは明らかだった。そこで両県は、同年末までに並行在来線を経営分離し、第三セクターに引き継がせる方針を打ち出した。
こうしてみると「存続は地域社会が責任を持つべき」という方針は、なしくずし的に既定路線となったことがわかる。