大都市圏から離れているのに、箱根が「大観光地」として発展したワケ

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箱根は日本を代表する観光地である。インバウンド回帰で「箱根バブル」と呼ばれるほど、観光客でにぎわっている。そもそも、なぜ箱根は大都市圏から遠く離れているにもかかわらず、観光地として発展してきたのか。

福澤諭吉の先見性

箱根(画像:写真AC)
箱根(画像:写真AC)

 移動手段として徒歩が当たり前だった江戸時代、江戸の人は箱根まで約2日で行けた。江戸の人々が東海道を旅すると、最初の宿は保土ケ谷宿(日本橋から約33km)か戸塚宿(約42km)である。『東海道中膝栗毛』で弥次喜多は戸塚宿と小田原宿に宿泊し、3日目に箱根に到着している。

 健脚な江戸の人にとって箱根は、のんびり行ける行楽地として意識されていた。江戸時代後半になると、そのにぎわいから街道沿いの温泉場が「一夜湯治」の客を受け入れるようになり、箱根宿と小田原宿が道中奉行に訴えたことからもめ事に発展した。このとき、温泉場が

・古くから旅人を泊めている
・20年前から湯運上金を納めている

ことをアピールしたため、道中奉行は宿場でなくても宿泊を公認した。これは、箱根が江戸時代にはすでに、現在と同じように短期滞在で温泉を楽しむ観光地として成熟していたことを示している。

 明治時代になると、箱根はさらなる発展を遂げる。交通網が早くから発達していたことが後押しした。明治時代に箱根の交通網整備を最初に提唱したのは福澤諭吉である。1873年3月、塔之沢温泉に滞在していた福澤は、箱根の将来の発展には道路整備が不可欠であるとして、地元の『足柄新聞』第6号に「箱根道普請の相談」という文章を掲載した。ここで福澤は

「箱根の湯本より塔之沢まで東南の山の麓を廻りて新道を造らハ、往来を便利にして自然ニ土地の繁昌を致し、塔之沢も湯本も七湯一様ニ其幸を受くへき事なるに、湯場の人々無学くせに眼前の欲ハ深く、下道も仮橋も去年の出水ニ流れしままに捨置き、わざわざ山道の坂を通行して旅人の難渋ハ勿論、つまる処ハ湯場一様の損亡ならずや、新道を作る其入用何程なるやと尋るに、百両に過ずと云い、下道のかりばしハ、毎年二度も三度もかけて一度の入用拾両よりも多きよし、拾両ツツ三度ハ三拾両なり、毎年三拾両の金ハしぶしぶ出して一度に百両出すことを知らず、ばかともたわけとも云わんかたなし。(中略)此度福澤諭吉が塔之沢逗留中二十日はかりの間に麓の新道造らバ、金十両を寄附すべきなり」
とした。

 現代語訳は

「箱根の湯本から塔之沢まで、東南の山の麓を回り、新しい道を築いた。これにより、移動が便利になり、自然に恵まれた土地の繁栄に寄与した。塔之沢と湯本の両方が、同等にその利益を享受できた。しかし、湯場の利用者たちは学識に欠け、自分たちの欲望に溺れていた。下道や仮橋も、去年の洪水で流れたままにして、山道の坂をわざわざ通らねばならなかった。これにより、旅行者は困難な状況に直面し、結局、湯場全体に損害をもたらしていたのである。新しい道を建設する必要性について尋ねると、100両以上の費用がかかるといわれた。下道の仮橋の修理は、毎年2回または3回行われ、1回の修理に必要な費用は10両以上だった。毎年30両以上の費用がかかり、それを支払うことにためらいはなかった。(中略)福澤諭吉氏は、塔之沢に滞在している間、わずか20日で新しい道を建設し、10両の寄付を提供すべきだと考えた」

とったところか。

 明治初期、箱根は新政府の交流の場として、また横浜に住む外国人の保養地としてにぎわっていた。しかし、福澤は、将来の発展を考えるならば、道路の整備が不可欠であると説いたわけである。辛辣(しんらつ)な文章ではあったが、彼自身は財政的な支援によってその実現を後押しした。

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