鬼怒川が衰退し、箱根が「一大観光地」であり続けるワケ
箱根を支えた修学旅行生
神奈川県西部に位置し、日本を代表する観光地・箱根――。そんな箱根には現在、インバウンド(訪日外国人)が殺到しているが、インバウンド需要以前の箱根の“ドル箱”は修学旅行生だった。
早くから道路や鉄道が発達していたおかげで、箱根は首都圏から多くの観光客を受け入れてきた。箱根は昔から修学旅行に適した場所とされてきた。修学旅行生の多さは、箱根の繁栄の重要な要因だった。なぜ箱根が適地とされたのか。それは修学旅行の「目的」があったからである。
修学旅行は現在、学習指導要領の「特別活動」として位置づけられているが、教育の一環として明記される以前から盛んに行われていた。通説では、最初の修学旅行は1886(明治19)年2月に東京師範学校(現・筑波大学)が千葉県銚子地方で実施した「長途遠足」とされている。11泊12日で、旅行というよりは合宿に近いものだった。
当時の学校制度は心身の鍛錬を重視しており、遠足を利用した軍事訓練も奨励されていた。この「長途遠足」もその一環で、目的のひとつは
「兵式操練ヲ演習」
だった。同時に、気象や鉱物の調査、文化財の視察など、学術的な研究も行われていた。
その後、1892年に文部省は師範学校の学科改正の説明のなかで、
「適当ノ時期ヲ選ビ教員ヲシテ生徒ヲ率ヰテ修学旅行ヲ為サシメ,山川郊野ヲ跋渉シテ其身体及精神ヲ鍛練スルト共ニ,知見ヲ広メシメンコトヲ努ムヘシ(適切な時期を選び、教師が生徒を修学旅行に引率し、山や川、郊外を散策しながら心身を鍛え、見聞を広める努力をする)」
と述べている。この頃から、修学旅行は師範学校や旧制中学校にも広がっていった。
当初、修学旅行は軍事教練の性格が強かったが、次第に教養に重点が置かれるようになり、汽車で神社仏閣を訪れたり、軍事施設や産業施設を見学したりするようになった。
1958(昭和33)年には、小中学校の学習指導要領に「学校行事」として盛り込まれ、正式な教育課程となった。