芸能人はなぜ「ハワイ」によく旅行するのか? その背景にあった「楽園イメージ」の源泉を辿る
海外渡航自由化で近づいたハワイ
1941(昭和16)年の真珠湾攻撃で太平洋戦争が始まったが、楽園としてのハワイのイメージは変わらなかった。敗戦後の1948年には早くも岡晴夫の「憧れのハワイ航路」がヒットし、映画まで製作されたのだから、日本人の楽園ハワイのイメージは変わらなかったようだ。
しかし、実際にハワイを訪れるのは難しかった。過酷な労働を覚悟する移民もいても、生活のためにハワイを訪れることは難しかった。1964年4月の海外渡航自由化は、この「憧れ」をぐっと現実に近づけた。
海外渡航が制限されていたのは、外貨の流出を防ぐためだった。海外旅行の自由化は、日本経済復活ののろしだったのである。ちなみに1964年当時は、渡航が自由化されたとはいえ、ひとりあたり年1回、外貨の持ち出しは500ドルまでという制限があった。しかし、1966年に外貨の持ち出し回数制限が撤廃され、持ち出し金額の制限も年々緩和され、1978年に撤廃された。
旅行業界は1960年代初頭から自由化の準備を始めた。日本交通公社は、許可を得てハワイに旅行した人々が書いた旅行記や体験談を使い、ハワイを観光地として宣伝した(自由化以前から文化交流や産業視察を名目とした団体旅行は行われていた。多くの芸能人も
「巡業」
という名目でハワイを訪れ、休暇の大半を過ごした。雑誌では芸能人がハワイで過ごす様子が報道され、一般の人々のハワイへの憧れを加速させた。
自由化は間近と見た日本交通公社は1961年、各地の銀行と提携して海外旅行積立制度を開始した。約35万円でハワイを1週間楽しめるとして、積み立てを勧めたのである。憧れでしかなかったハワイが、「頑張って月1万円ためれば、数年後には行ける」場所に一気になった。
。1962年には壽屋(現・サントリー)が「トリスを飲んでHawaiiへ行こう!」キャンペーンを展開し、1等賞品でハワイ旅行積立預金証書(100人)が当たるとして大はやりした。