芸能人はなぜ「ハワイ」によく旅行するのか? その背景にあった「楽園イメージ」の源泉を辿る
日本人とハワイの歴史
日本人が初めてハワイを認識したのは幕末だ。1860(萬延元)年に渡米した「咸臨丸(かんりんまる)」が帰路の補給のためにホノルルに到着した。
この船には勝海舟、ジョン万次郎、福沢諭吉らが乗船し、歓待を受けた。これが日本とハワイの友好の始まりとされている。しかし、カメハメハ4世に謁見(えっけん)し、歓待を受けたものの、彼らのハワイに対する印象は厳しいものだった。
福澤諭吉の自叙伝『福翁自伝』では、国王のことを「村の漁師の親方くらい」とまで書いている。未開発の島と見なされていたハワイだったが、早くから移民先として有望視されていた。サトウキビ畑やパイナップル畑で働くことで、日本よりも多くの収入を得られると考えられていたのだ。
その結果、1868(明治元)年には早くも153人の日本人がハワイに移住した。その後、1898年にハワイ王国は米国に侵略され、滅亡した。ハワイは準州として併合され、白人資本は観光地としてのハワイ開発を推進した。
観光地化するハワイを見た日本人は、そのイメージを日本に持ち帰った。こうして1920年代には、
「ハワイ = 南国の楽園」
が日本に広まっていった。当然、移民や原住民も多く、労苦もあったが、それらに目を向けられることはなかった。
1928(昭和3)年、ホノルル生まれの日系2世、灰田有紀彦(晴彦)がハワイアン・バンド「灰田晴彦とモアナ・グリー・クラブ」を結成し、ハワイアン音楽ブームを巻き起こした。
この弟が人気歌手として知られた灰田勝彦で、1936年のデビュー曲が「ハワイのセレナーデ」。翌年のヒット曲「真赤な封筒」は、ハワイアン音楽に日本語の歌詞を付けたものだった。こうした大衆文化を通じて、ハワイは不自由なく過ごせる南国の楽園というイメージが日本にも定着していった。