リニア工事見通し立たず 地元民が懸念する「丹那トンネルの二の舞」という現実、水源枯渇の歴史と川勝知事の正当性とは
丹那盆地にもたらした甚大な被害
しかし工事が進む一方、トンネルの上では、水がなくなるという事態が起きていた。トンネルの上に位置する丹那盆地には、当時約5000人が住んでいた。盆地は湧水が多く、稲作やわさび田に利用されていた水豊かな土地だった。しかしトンネル工事によって、盆地の農業に欠かせない湧水までが流出したのだ。
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丹那盆地の住民が湧水の減少に気づいたのは1924(大正13)年のことだ。当初は前年の関東大震災の影響と考えられていたが、次々と枯渇するにつれ、地下トンネル工事が原因と考えられるようになった。
特に1924年の減水は異常で、秋の収穫は十分ではなかった。丹那盆地の湧水が次々と枯渇し、大混乱に陥った。
「其の影響する処は甚大で、水田被害数百町歩、水車の運転不能となれるももの数十台、中で尤も住民を困惑せしめたものは飲料水の欠乏で、或る処は井戸を浚渫するも足らず渓間の小水を竹樋にて引用して当分の涸をいやす処もあり」(鉄道省熱海建設事務所『丹那隧道工事誌 渇水篇』鉄道省熱海建設事務所、1936年)
『丹那隧道工事誌 渇水篇』は、鉄道省による当時の被害と補償の詳細な記録である。それによると、丹那トンネル建設によって66か所の湧水が枯渇し、断層に沿ってトンネルから離れた場所でも発生した。
また、地下水位が130m低下し、掘削期間中だけで合計6億トン(芦ノ湖3杯分)の水が流出したことも明らかになっている。地下水位の低下により、家屋や田畑が陥没する被害も発生した。
同資料には、被害を記録した後、金銭的補償とかんがい用水路や飲料水施設の建設について交渉が成立したと記されている。
しかし、補償金は支払われたものの、湧水は戻らず、豊かな水を基盤としていた稲作やわさび田の耕作は不可能となった。