東海道新幹線の「車内販売」はなぜ令和の今まで続いたのか? 駅コンビニ隆盛時代の謎
販売が続けられたワケ
さて、窓の開かない新幹線ということで、当初から車内販売も想定されていた。と思いきや、そうではない。新幹線が開業した当初は、車内販売のほかに、各駅のホームで立ち売りという伝統的なスタイルも行われていた。
しかし、風圧でワゴンが倒れ、商品が飛ばされる危険性があったため、ワゴンは禁止された。そこで、事業者はホームに固定店舗を設けて営業を行うようになった。これが、今では当たり前になったホーム上の固定店舗の始まりである。
JR発足による大きな変化は、車内販売や構内営業もJR関連企業が主導するようになったことだ。東海道新幹線では、1988年3月に食堂付き100系編成が導入された。
この編成の一部をJR東海の100%子会社である「新幹線パッセンジャーサービス」が引き継いだ。新会社が登場する一方で、都ホテルは1990年に、帝国ホテルは1992年に撤退した。
その後、分割・合併を経て、2002年にふたつの会社が誕生した。JR東海系の「ジェイアール東海パッセンジャーズ」とJR西日本系の「ジェイアール西日本フードサービスネット」である。東海道・山陽新幹線の車内販売は、山陽新幹線の一部区間の弁当を除き、すべてJR系の会社が運営するようになった。
営業体制の再編・統合にともない、サービスが見直され、食堂車がなくなり、次いでカフェテリアもなくなった。とはいえ、列車内での車内販売は他の営業形態よりも乗客に人気があったため続けられた。
1988年に導入されたカフェテリアでは、さまざまな種類のおかずやデザートが売られた。当初は、夕食時に新大阪駅を発車する上り列車に乗客が行列を作ったといわれるほどの人気だった。
しかし長くは続かなかった。列車内に売店や自動販売機を設置する試みはほかにもいろいろあったが、頓挫している。わざわざ客車から客車へと移動しなければならないよりも、車内販売の方が乗客にとって魅力的だったからだ。特に、車両が進化して快適になったことで、乗客は座席から立ち上がることが少なくなった。つまり、車内販売は
「新幹線に最も適した販売方法」
だったのである。