東海道新幹線の「車内販売」はなぜ令和の今まで続いたのか? 駅コンビニ隆盛時代の謎
販売が行われるようになったワケ

では、なぜ車内販売が行われるようになったのだろうか。まず、昔の駅は今とはまったく違っていた。特に長距離列車が発着する駅のホームの風景はまったく違っていた。固定店舗といえば、新聞販売所と牛乳販売所、立ち食いそば屋くらいだった。それ以外はすべて立ち売りだった。列車が来ると、売り子たちは商品を積んだ箱をひもで首からぶら下げたり、ワゴンを押したりして商売をした。
各車両の窓やドアは手動で開閉できたので、固定店舗や車内販売は必要なかった。しかし、日本の高度経済成長とともに、優等列車(速達性や車内設備の優れた列車)に冷房車が標準装備されるようになり、この営業スタイルは変化を余儀なくされた。特急列車では、窓は開かなくなり、ドアは勝手に閉まるようになった(以前は、発車後に小走りで荷物や小銭を交換するのが当たり前だった)。
列車の速度が速くなったことは、停車時間が短くなったことも意味した。そのため、構内で営業していた事業者は、車内販売にビジネスモデルを変更せざるを得なくなった。そこで、各駅で営業していた駅弁業者は、路線ごと、地域ごとに共同会社を設立し、車内販売に乗り出した。東海道新幹線が開業したのは、この車内販売制度が整備された時期である。
1964(昭和39)年10月に開業した東海道新幹線は、当初は全列車で食堂車を運行することを原則としていた。駅弁は、東海道本線を管轄する車内販売会社の東海車販が担当した。ジュースや土産物などは、食堂車を運行する日本食堂と帝国ホテルが担当した。
つまり、ひとつの列車に複数の車内販売業者がいたのである。しかし、このシステムは1年足らずで廃止された。ひとつの列車に複数の業者が乗っていたのでは、各社にとって十分な売り上げにならなかったからだ。
1965年、食堂車を運行する会社が車内販売をすべて行うシステムに変更された。以降、JR草創期までの新幹線は、食堂車から車内販売まで、日本食堂、帝国ホテル、ビュッフェとうきょう(東海車販に改組)が担当した。その後、1974年に都ホテルが参入し、新幹線の食堂車と車内販売の4社体制は国鉄分割民営化後もしばらく続いた。